福島社民党首は「官僚の答弁を禁止する国会法改正」に反対して「役人の答弁禁止は表現の自由や国会審議を侵害する。内閣法制局の答弁を制限するということもあってはならない」と主張されました。
呆れた主張です。「自衛隊」の合憲性を巡って「内閣法制局」には永年に亘り誤魔化され、「核持込密約」「薬害事件」「社保庁問題」など社民党の看板政策で役人には騙され続けながら、今でもその答弁を聞きたがる福島党首の心理状態は想像も出来ません。
法律にど素人の私が、弁護士の福島氏に法律解釈で挑戦する事は無謀ですが、憲法をないがしろにした福島発言を看過する事は出来ません。
そもそも憲法というのは、公権力が守るべき法規範(日本国憲法99条)で、「自由」というのは、公権力が干渉できない領域です。その意味で、好き勝手という意味の「自由」と憲法上の「自由」を混同されているのは悲しい事です。公権力を有する者が、公権力の行使の過程で「自由」を主張するのは、法的にはナンセンスで、福島氏の大きな誤解はこの混同にあります。
「言論の自由」と「表現の自由」とでは微妙に異なりますが、共に公権力の行き過ぎから市民を守る為の国民の基本的権利に属します。従って、公権力を遂行する過程の言論はその対象ではありません。
憲法には「公務員の権利」を定めた条項は無く、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」(第15条第2項)「内閣は法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること」(第73条)など、公務員が自己や省の利益を優先する事を禁じ「信義誠実の原則」(Fiduciary Duty)を守り、勝手気ままな言動をしない事を求めています。
なにやら小むずかしい話になりましたが、要するに、官僚の記者会見禁止や国会法の改正は、役人や法制局に記者会見や答弁を求めるなら、事前に大臣の許可をとりなさいと言うだけの話で、言論や表現の自由とは関係ない常識的な考えです。
内閣法制局が法案や条約の整合性を審査し、その見解を政府や国会に進言する事は賛成ですが、政府の統一見解は閣僚が責任を持って発表すべきもので、結果責任を問われない官僚や法制局長官が、勝手に見解を公表したり質疑に応ずるべき性質のものではありません。
「政治家が憲法解釈を行えば、政府見解が度々変更される可能性があり、一貫性を保とうとすれば、法解釈は結局、官僚に頼らざるを得ない」という意見もありますが、政権が交代しても一貫性を重要視するようでは、政権交代の意味がなく、これは民主主義の原理に反する本末転倒の論議です。
憲法解釈に対する政府見解に疑義があれば、憲法第6章、第81条の規定に従い、司法にその判断を仰ぐべき性格のもので、行政官である官僚はその立場にはありません。又、論議に耐える内容が大切なのであって、一貫性などは本質に拘る問題ではありません。
野中一ツ橋大学名誉教授は「人間関係や過去の慣習など、本質に関係の無い事を拠り所にして重大な物事の判断をする慣行をやめて、何が物事の本質かを議論し、徹底的に突き詰める組織風土の追求が大切だ」と述べられました。今回の国会法改正を機に、政治家が本質論を徹底的に戦わす国に変えていきたいものです。
日本は終戦を機に、「新憲法」という設計図を書いて「議会制民主主義」の新しい国家の建設に着手しました。ところが、「設計図」に沿って家を建てる習慣をもたない日本は、図面通りの材料がないと拙速を重んじて、官僚と言う現場の大工さんに急ぐよう頼み、官僚は身の回りにある材料を工面してバラックを提供する事で国民を満足させてきました。物資が豊富になった後も、同じやり方で増改築を繰り返すうちに、この悪しき慣行が当たり前になり、現在の官僚制度が出来上がったのだと思っています。
こうして、基本設計を無視して増改築を続けてきた日本の国家構造は、明らかに構造疲労を起こしています。この辺で、設計図に忠実に従う正道に戻るべきです。
建築家である政治家が、施主である国民の意を汲んで書いた図面に従って、忠実に建築作業をする事が、新しい「日本」の官僚に求められる役割です。
国会法とは別に、松本さんから『「官僚は記者発表をやってはならない」という禁止令まで出すことには、疑問を持っています。』と言う意見が出されました。
私は、そもそも論として、官僚には政府の公式見解を発表する憲法上の資格がないと考えています。ましてや政府見解と異なる意見を差し挟む事は「信義誠実」の原則に違反しますから、公務員の身分を離れ、一国民として発言すべきものです。民間会社で社員が経営者と異なる意見を発表したり、経営者を補うために経営者と別に会見したら、どう思うでしょうか?官僚は例外と考える事が、悪しき慣行なのです。
それにしても『「禁止」は行き過ぎだ』という意見に賛成する人は多いでしょう。
合理的な理由も無く、永い間受け入れられてきた偏見同様の悪しき慣行は、簡単には無くせません。これを排除する方法として、単に禁止するのみならず、悪習に手をだした人間を厳罰に処してでも過去の慣行をなくす手段は、多くの国で採用され成果をあげてきました。
具体例を挙げれば、言論の自由を事のほか大切にする欧州でも、10カ国以上が「ナチスの犯罪を否認もしくは矮小化する」事を違法と定め、中でもフランス、ドイツ、オーストリアでは違反者に対して刑事罰を適用しています。日本であれば、「言論弾圧」「全体主義復活」などの論議が沸騰した事でしょう。
米国でも、永年続いた人種や宗教による差別を禁止した市民権法は、違反者には罰則条項を適用して、例外なく処罰しています。
政治家より官僚を信頼する日本のマスコミや国民の慣習は「コンパスの針は南向き」と信じている様なもので、この修正に例外を許せば世の中は混乱します。そういう意味で、私は「禁止」と言う明快な方針が必要だと思っています。
「官僚を使いこなせるか?」も、良く聞くセリフですが、これは官僚が考え出した保身用のセリフです。
使いこなす云々の前に、先ずは官僚が憲法の原則に従って職務に励むべきです。監督者である内閣は、その働きを評定し、それに似合った処遇をすればよい話です。そのためにも、結果責任を問われない現行の公務員法は早急に改正する必要があります。この点では、「みんなの党」の提案する公務員法の改正案は大変よく出来ているとおもいます。
「表現の自由」を履き違えた公務員の発言は数多くあります。例えば :
田母神前航空幕僚長の政府見解に反する論文発表事件は、諸外国であれば即刻解雇、場合によっては規律違反で軍法会議ものです。あの粗末な内容の論文を書いて、恥じも外聞も無く公表するくらいですから、「使いこなす」術もありません。この様な人が航空幕僚長になる任用制度も再点検すべきでしょう。
又、農林水産省の井出道雄次官が、選挙直前に民主党の基本政策の一つである「農業者の戸別所得補償制度法案」を厳しく批判した事件も問題です。現政権下でも事務次官を続ける井出氏に記者会見が許されたら、どのような一貫した答弁をされるのでしょうか?
以上の様な理由で、「信義誠実」の原則を守らず、憲法第15条に違反してまでも「自己や省の利益」を優先させる官僚の答弁を、抵抗も無く受け入れがちなマスコミや国民が存在する限り、国会法改正は必要だと考える次第です。
ニューヨークにて 北村隆司
コメント
>ところが、「設計図」に沿って家を建てる習慣をもたない日本は、図面通りの材料がないと拙速を重んじて、官僚と言う現場の大工さんに急ぐよう頼み、官僚は身の回りにある材料を工面してバラックを提供する事で国民を満足させてきました。
最近、北村さんの友人である松本さんとお会いしたスポンタです。
私と北村さんの考えはちょっと違うようです。多様性の高いアメリカでは明確な図面によって大工が集ってくるが、同質性の高い日本では、「明確な図面」を出すと端から批判され、蹴落とされる。だから、後だしジャンケンが有効。だから、誰も「明確な図面」を出さなくなった…。
言い方をかえれば、アメリカでは、「理想・思想」なる設計図があり、それを掲げることで大統領は求心力を得て「国の形」をなす。しかし、日本には天皇制という「統合の象徴」があるので、特定の「思想」によって一体感を求める必要がない。総理大臣の支持率が低くても、治安は不安定にならない。
初めてコメントさせていただきます。
役人に言論の自由はない!を拝見させていただきました。
そのとおりだと思います。
昨今言論の自由が個人の勝手な解釈によりいろいろな場面で使われてしまい混同しているように見受けられます。
政治に関する発表等は責任者(大臣、副大臣、政務官)が担っているわけで、公務員が責任を持っているわけではありません。よって公での発表は責任者が行うことが必然的ですよね。ただ今までの責任政党である自民党の大臣等が何も分からない担当に就いていたため様々な質問に応答できないため官僚に振っていたことが矛盾だったのですよね!
今回の政権政党が変わったことにより今までの慣習が間違ってたことに気付かない国民もいますがここははっきりとしないといけないところだと思います。
先の大阪府の「橋下知事」への職員からのメールの返信内容の問題も大きな記事になりましたが、言論の自由が勝手に行き交うようでは先が危ぶまれます。
社民党もここのところをはっきりと理解しないといずれはじき出されるようになるのではないでしょうか?
乱文乱筆で申し訳ありません。
これからも拝読させていただきます。失礼致します。
北村さんの言われるとおり、各省庁の官僚は、国民が政治を委託した総理大臣の部下である大臣ののそのまた部下です。総理大臣が社長、各省の大臣が事業部長とするなら、局長はさしずめ部長というところでしょう。ですから、もし部長が事業部長の意に反したことをべらべらと新聞記者などに話したら、降格されたり、閑職に追いやられるのが当然です。
しかし、事業部長が管轄下の部長に新聞記者と話すことを禁じ、自分が全て話すというのであれば、外部に伝えられる情報量が少なくなることを恐れます。新任の事業部長が全ての事に精通しているとは思えず、従って、慎重な事業部長であれば、間違ったことを言わぬよう、概ね沈黙を守るでしょう。つまり、記者会見はあまり開かず、開いたとしても情報開示の量を少なくするでしょう。
私が事業部長なら、先ず部長達との日頃の意思疎通に遺漏なきを期します。その上で、記者会見の多くは彼等にやらせます。もし、彼等が私の意に反することを喋れば、後から自ら訂正し、その上で、この部長を閑職に追いやるでしょう。もし秘書室が、「部長には喋らすな。記者会見はお前が全部やれ」と言って来たら、私は大いに反発するでしょう。
>彼等が私の意に反することを喋れば、後から自ら訂正し、その上で、この部長を閑職に追いやるでしょう。
この事業部長は経営陣や顧客から無能という評価を下されるものと考えます。それぐらいなら初めからおまえがやれ、と。なお一介の事業部長が部長の人事権を持っていることはあまりないでしょう。そもそもたとえがおかしいので、内閣が罷免や降格や配置転換をすることが困難で結果責任を負うこともほとんどない高級官僚という存在は企業で言えば組合員である係長以下と見るべきではありませんか。
基本的には、「役人に言論の自由はない」に賛成です。しかし政治家も官僚も国家公務員として国民に奉仕する義務を負っています。もし私利・党利で非合理な法律や制度を行おうとする政治家に対して、役人が黙って見過ごせない場合もあるかもしれません。
そういう場合の対応として、アゴラのような文字媒体を利用して、役人が実名で、反対の理由と根拠を明らかにして議論を挑めるようにしてはどうかと考えています。
政治家も同じ土俵で反論すれば良い。文字媒体は何度でも熟読できるので、合理的な説明ができないと議論になりません。また、お互いの「理論」に対して、その道の専門家が批評記事を投稿したり、コメント欄で批評すれば、お互いの理論の正当性や妥当性がより明白できますし、専門的な内容もより掘り下げる事ができるかと思います。
詳細は下記ブログに書きましたのでご参照ください。
http://bobby.hkisl.net/mutteraway/?p=1606
「松本さんのコメントを読ませて頂き、私が例え話で民間の例を挙げたことが混乱の原因になった事が判りました。民間企業には公権力を付与されていませんので、一般国民同様の法的権利が保障されています。従い、各企業が如何なる形で何を発表しようと社内の規則と発表内容が、最高法規である憲法に違反しない限り全くの自由です。公権力の行使の過程での公務員にはその権利は与えられていません。従い、この点に関する限り官民は一緒には出来無いと言うのが私の理解です。
官僚の記者会見で、国民が多くの情報を得てきた事は事実ですが、憲法第15条第2項の「信義忠誠」の原則や憲法第73条第4項の「内閣の掌理義務」で決められた通り、これ等の情報を内閣の承認なしに官僚独自の判断で公表する事は憲法で禁じられています。官僚の重要な能力がブリーフィングにある事は軍隊の参謀と同様であり、官僚と内閣の間で情報の乖離をなくす事が官僚の任務です。ましてや、記者クラブの懇談会での官僚のリークがオフレコ扱いの現状では、法治国家の域を超えた「放置国家」の惨状です。
松本さんへのコメントつづき
国家の制度設計の中での官僚である以上、その優秀さは自分個人のものとして発揮するのではなく、大臣を通じて発揮すれば済む話のように思います。法の支配を鮮明にして公権力を制限したマグナカルタ以来、公権力の対極にある国民の権利を優先する伝統を持つ欧米では、神経質と思えるほどに、公権力の行使の過程での公務員の言動を制限しています。法治国家、契約社会を目指す日本でも「微妙な法的立場の相違」を明快に定義する事が重要だと思います。」
sigeoh 55さんの「今までの慣習が間違ってたことに気付かない国民もいますがここははっきりとしないといけないところだと思います。」と言うご意見は全くその通りですが、「茹で蛙症」の重症患者である日本人を「覚醒」させる事は、甚だ難しい問題です。不断の討議を繰り返すしかないかもしれません。
bobby2009 さんの「政治家も官僚も国家公務員として国民に奉仕する義務を負っている」には同感ですが、「何が国民に対する奉仕」であるかを決める責任と権限は内閣に与えられており, 官僚には与えられていないと解釈しています。
又、「私利・党利で非合理な法律や制度を行おうとする政治家」に対する評価権は、国民固有の権利であり、役人が発言したい場合は、役人を辞任して一般国民に戻るか、内閣を通じて発言すべきで、それ以外は「黙っている責任」が求められています。官僚と政治家は同じ土俵上にはいない事を決めたのが憲法だと思っています。
sigeoh 55さんへのコメントのつづき
この原則に反対であれば、憲法を改正しないとなりません。「役人が実名で、反対の理由と根拠を明らかにして議論をする」事も「国家の制度設計の中での官僚」である以上認められません。私は、これらを総称して「役人には言論の自由がない」と考えている訳です。
「そんなにしゃちほこばらず」にと言う感じも良く理解出来ますが、「自由」と「平等」の定義を厳格な規範で縛らないと「民主国家」が成立しない事は、民主主義の実現のために自らの血を捧げてきた西欧社会では、誰もが疑義を挟まない原則だと思います。
スポンタさん、ご意見有難う御座いました。松本さんと言い、スポンタさんと言い、私の使った「例え話」が混乱の原因を作り、「例え話」の限界を痛感しています。
私は「アメリカ」と日本を比較した心算はなく、「慣行優先社会」の日本と「法の支配を鮮明にした法治国家」を比較した心算でした。成文憲法を持たない英国でも「法の支配」ははっきりしているだけに、成文憲法を持つ日本が「慣行」を法に優先する現状は、世界でも例に見ない異質な現象だと思っています。国民の「同質性」とか「明確性に対する抵抗」を認めたとしても、この異質性には大きな疑念を持ちます。
スポンタさんへコメントのつづき
酒井法子さんの「覚せい剤取り締まり法違反事件」でも、民主国家では考え難い長期拘置期間中に、連日「自白」と言うリークが報道されました。警察当局しか知りえない情報が頻繁に流される事実からも、官僚に依る報道機関を使った情報操作を感じます。是は、「法の支配」に反する重大な公権力の違法行使で、警察を捜査すべき重大問題です。冤罪事件の多くも、司法官僚の記者会見による情報操作で起きた事を忘れてはなりません。この情報操作に載せられた報道機関は、近代刑事法の基本原則である「推定無罪の原則」を無視して、「酒井容疑者が今後どのように反省するかを見守る事が重用だ」などと有罪宣告をしています。私は、スポンタさんの言われる情け無い日本の現実を認めるからこそ、政権交替を機に、従来の悪しき慣行を一つでも直したらどうかと思った次第です。
たとえ話から論点をずらしてしまったようで反省しています。ごめんなさい。そして、リプライありがとうございます。
日本を嘆きたい気持ち。日本を叱咤したい気持ち。そんな北村さんを理解します。多分、同じ感情を松本さんも共有されていてアゴラに参加されているんですよね。
ただ、司馬遼太郎ファンの私からは、そうした価値観は、エリートコースな人生を歩まれてきたからこそ発想されるもので、思想の底に「西欧からみた日本」という視座を感じてしまいます。
私が感じるのは、「西欧のやり方に影響されてオカシナことになっている日本」であって、その先にあるのは、「西欧のような日本」になることではなく、もしかすると「江戸時代のような日本」になることなのかもしれません。勿論、「西欧という理想」も「江戸時代の日本」という理想も、様々な問題を孕んでいて、それがそのまま理想的でないことは勿論ですが…。
ご指摘のとおり、のりP事件でも、私たちの国が「人治国家・情治国家」だということが証明されました。ただ、マスコミの専横はともかくも、それがいいことなのか・悪いことなのか。私には、何ともいえない。というのが、私の立場です。(^^;)
>政権交替を機に、従来の悪しき慣行を一つでも直したらどうかと思った次第です。
そうですよね。私も期待しています。
北村さんの「黙っている責任」という意見には、はじめに原則同意を示しておりますので、頂いたコメントにも反論はありません。
以下は余談ですが、「役人が発言したい場合は、役人を辞任して一般国民に戻るか、」というのはむしろ、「役人を辞して政治家になるか」という方が実際的かと感じました。
>「何が国民に対する奉仕」であるかを決める責任と権限は内閣に与えられており, 官僚には与えられていないと解釈しています。
「官僚たちの夏」を見直していて、面白いセリフに気づきました。
「俺たちは大臣に雇われている訳じゃない、国民に雇われているんだ」とは、ドラマで主人公が叫ぶセリフです。もしかしたら、官僚の本音かもしれませんね。