日本は情報戦争を生き残れるのか ―中川信博

中川 信博

2001年、EU議会の委員会にある調査報告書が提出された。それはいわゆる「エシュロン」について調査したものである。エシュロンとはUKUSA協定に基ずくアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの英語圏諸国による情報共有とそのシステム全体を指す言葉である。アメリカ政府はそのその存在を公式に認めてはいないのでこのエントリーは憶測にということになるが、提出された報告書ではアメリカNSAがエシュロンを使用して民間企業の通信を盗聴して米国企業にその情報を提供していると断罪している。


シギント先進国のイギリス
世界各地に植民地を保有していたイギリスは安全保障上の必要から通信インフラの整備を早くからすすめ、19世紀末には世界の電信電話回線の3分の1を保有するに至る。そしてナポレオン時代のフランスで、郵便制度が確立したと同時にその検閲がはじまったのと同様に、イギリス政府は電信電話通信を傍受し始めたことは想像に難くないであろう。1914年8月4日第1次世界大戦が勃発するや否や、翌日5日にはイギリス海軍はドイツの海底通信ケーブルを切断したというのは、時の海軍大臣チャーチルが如何に通信というものを戦略的に捉えていたかを物語るエピソードである。この大戦でアメリカの参戦のきっかけとなったドイツのメキシコに対する工作をイギリスは傍受し、それを巧妙にアメリカ政府に伝えている。そのメキシコに対するドイツの工作を知ったアメリカは参戦を決意するが、同時に自国の通信がイギリス情報機関に傍受されている疑念を抱くことになる。これがMI8発足のきっかけともなる。

UKUSA協定とエシュロンの誕生
ヒトラーがヨーロッパで戦争はじめると、今度は首相としてチャーチルはドイツと対峙しアメリカの参戦工作を画策する。日本の通信を傍受して暗号を解読していたイギリスは真珠湾攻撃で米国が参戦した1942年2月までアメリカ政府の通信傍受を続けていた。チャーチルは書簡でルーズベルトに「その種の作戦(アメリカの通信傍受)を中止した」と書き送っている。―ちなみに第1次大戦以降日本の暗号はイギリス、アメリカに解読されていたことは周知の通りである。日本政府は勅語などが煥発されると、それを世界各国の大使館へ暗号文で送信した。どんな暗号でも原文が一言一句わかるのであれば解読作業はイギリス人が漢文を読むより簡単なことだ―

第2次大戦中イギリス、アメリカは完全に情報を共有した。地理からイギリスは主に対ドイツ、アメリカは対日本、特にドイツ、エニグマ暗号解読には両国の不断の協力があった。そしてこの情報共有が戦後1948年UKUSA協定として、アメリカ(NSA)、イギリス(GCHQ)、カナダ(CSE)、オーストリア(DSD)、ニュージーランド(GCSB)の5カ国に拡大し、対共産圏へのシギント作戦を展開することになる。東西南北各地に通信傍受基地を設け、共産勢力の通信傍受と得られた情報の共有が図られた。これら通信傍受一連のシステムを総称して「エシュロン」と仮称している。―ちなみの同盟国の我国には三沢にその基地があるといわれている―

エシュロンの民間利用疑惑
冷戦終了後に政権についたクリントン大統領は冷戦に勝利するためのつけとして大きな財政赤字を引き継ぐことになる。クリントンは大幅な軍縮と「情報ハイウエイ」構想を掲げ、製造業から規制緩和による、IT、金融産業への構造転換政策を打ち出す。軍縮は多くの軍事技術者を失業に追い込み、転職した技術者は金融業界で数学を駆使しいわゆる金融工学を普及させることになる。

しかし軍縮はNSAに波及することはなくその能力は維持された。エシュロンはソ連が消えた後、その任務を自国企業のライバルたちに代えることになる。―ちなみに昨今話題のトヨタだがクリントン時代もセクハラや何かで日本企業が告訴され天文学的賠償金を分捕られたが、それらにNSA当局が情報提供したことは疑いないだろう。同じ民主党で弁護士のオバマ大統領が、クリントンが冷戦末期の軍拡情報戦の遺産を利用したように、911の遺産による情報支配を利用をしていることとダブルのは私だけではないであろう―

EU議会のエシュロン委員会の報告書にはこの90年代、NSAがアメリカ民間企業の競争に関与し、ヨーロッパや日本の企業の通信を傍受しアメリカ民間企業へ情報を提供していたと断言している。90年、住友商事とNECはインドネシアの通信インフラを内々に受注していたが、結局アメリカの圧力によりAT&T社と契約を分け合うことになる。オーストラリアの石炭取引でも日本側の通信がもれていた疑惑がある。民間ではないがウルグアイラウンドでは日本側代表団の本国との通信はすべて傍受され、日本側の落としどころは筒抜けだったとしている。他にも1994年、サウジアラビアの航空機受注におけるエアバス社とボーイング社の件もあがっている。

世界の通信を支配するアメリカ
UKUSA協定諸国、特にアメリカNSAは世界の通信を牛耳っているといっても過言ではない。無線通信は言うに及ばず、有線に至るまで傍受は可能である―光ファイバーでも困難であるが傍受可能としている―。しかしすべての通信を傍受しているというわけではなく、ある特定のキーワードを入力して目的にかなった通信だけを傍受しているといわれている。そのシステムを「ディクショナリー」と呼んでいる。

2001年ヨーロッパのみならずアメリカでもプライバシー保護の観点からエシュロンに対する風当たりが強くなり、何らかの規制を検討しているさなかの9月11日、同時多発テロが勃発したのを受け、アメリカ議会はNSAなどの情報機関の予算を増額し、その行使範囲を大幅に緩和した。現在でも世界中の携帯電話、電子メールのアラビヤ語通信は傍受され解析され、危険ワードがあった場合にはすぐに対応できる体制がアメリカ、イギリスではとられている。

エニグマ暗号を解読するために造られたColossusの技術をイギリスは第2次大戦後すべて破棄する。それは暗号を解読されていることをヒトラーに悟らせないため、いくつもの都市爆撃情報を黙殺して多くの犠牲者を出したことを隠匿するためだった。その後ABCやENIACAなどを製作していたアメリカがコンピュータを中心とする産業を発展させたことは周知の通りである。そしてARPANETでその通信システムの原型を開発したアメリカ政府は、情報支配をゆるぎないものにしたといえる。パケットがアメリカのあるサーバーを経由するように設計されていることを証明できないが否定もまたできない。

日本企業の情報リテラシー
我国の政府、企業は完全に情報戦争に敗戦している。情報的に占領されてるといっても過言ではない。我々の通信は筒抜けなのである。国内での競争であればいいが、国際競争になった場合、我国が大型受注できるのは新幹線くらいであろう。新幹線の最大のライバルはフランスのTGVで、アメリカが同盟国として日本に味方すると考えられるからだ。EU議会でエシュロン糾弾の急先鋒はフランスなのである。

我国の主要企業の電話、ファックス、電子メールなどは補足されていると考えたほうがよいだろう―それを使用するしないはいわゆるリクワイヤメントの有無であろうが―。ビンラディンが現在携帯電話を一切使っていないことでも明らかであるが、アメリカ企業と競合している我国の企業トップがなにか重要なことを衛星を経由するような通信で話すなどはきわめて危険である。企業は機密情報のリテラシーを向上させさければ国際競争に勝つことはできないと断言してもよい。

追記
クリントン時代にはじまった年次改革要望書で実現された規制緩和は、独占禁止法改正・持ち株会社の解禁、大規模小売店舗法廃止、大規模小売店舗立地法成立、建築基準法改正、労働者派遣法の改正、人材派遣の自由化、健康保険本人負担3割制、郵政事業庁廃止、日本郵政公社成立、法科大学院の設置と司法試験制度変更、日本道路公団解散、分割民営化、新会社法成立、新会社法の中の三角合併制度が施行と枚挙に暇がない。

これらは学問的に真であっても、通信に対するカウンターパートやスパイ防止法といったインテリジェンス法が未整備の状態で緩和したことは、文句を言えない状態でイカサマ賭博場で博打を打てといわれたようなもので、打てば打つほど負けるのは目に見えていたのである。我々がスパイ防止法やカウンターインテリジェンス機関なしの市場開放、規制緩和に反対した理由はここにある。なにも負けるとわかっているルールを国内で受け入れることはないのである。

議論の齟齬は経済学者や経済学に啓発された一般人は理論の真偽を問題にするが、安全保障のリアリストやリアリズムに啓発された一般人は理論の真偽より、その結果の善悪に重点を置き、また経営者でも損益の結果を問題にするので結論が噛み合わないのである。これは良い悪いではなく価値観の違いに由来する根本的問題である。

補足
クリントンが発表した「国家安全保障戦略 関与と拡大」には情報活動能力の維持という項目が設けられ、NSAやCIAは軍縮の対象からはずれ、規模も質もある程度維持された。さらに3つの柱として1.軍事力を伴った安全保障を信頼できる範囲まで維持すること、2.アメリカの経済再生を支えること、3.海外の民主主義を推進すること。

1.において兵力の削減をしたが、情報収集量力を温存し、2.はその能力を使ってソ連に代わる新たなる脅威である経済大国日本を徹底的に叩いた。それと同時に各国の通貨当局の通信を傍受し、これをアメリカ企業が利用し通貨危機を演出し、アメリカ企業は天文学的金額を儲けた。これをクリントン政権は経済安全保障と呼んでいた。3.は前のエントリーで指摘した典型的なリベラリズムであるが、クリントンは大統領選に出る前、まだアーカンソー州という、アメリカ人もその名前を知らない州知事のとき、ビルダーバーグ会議に招待されヨーロッパでは驚きをもって迎えられた。彼は数年後アメリカ大統領になったことは周知の通り。

ちなにみアメリカ国防大学戦略研究所では情報戦を7つのカテゴリーに分けている。指揮統制戦争(Command-Contror Warfare)、情報基盤戦争(Inteligence-Based Warfare)、電子戦(Electronic Warfare)、心理戦(Psychological Warfare)、ハッカー戦(Haker warfare)、経済情報戦(Economic Information Warfare)、サイバー戦(Cyber Warfare)

参考文献
エシュロンと情報戦争
エシュロン ―アメリカの世界支配と情報戦略
チャター ―全世界盗聴網が監視するテロと日常

コメント

  1. 渡部薫 より:

    残念ながらない。Googleの中国問題のときに真っ先にホワイトハウスはサポートしたけど、日本にGoogleのような一民間企業が国に立ち向かうこともないし、政府が支援するとも思えない。

  2. brownlabel より:

    細かいところになってしまいますが、記事中のアメリカ国防大学戦略研究所というところの分類でいう、”ハッカー”戦ってハッカーという用語を誤解をまねく用法で使っていて望ましくないですよね。アゴラをお読みになるような方ならもうご存知でしょうけど、例示すると、iPodの裏側の鏡面加工の職人さんをさして「この研磨技術はまさに研磨機ハッカーと呼ぶにふさわしい!」というように使うのが正しい用法ですからね?