日本を立て直す

小幡 績

日本はどうなってしまうのか。
僕の周りには、あまりのふがいなさについに日本を離れていく人が増えてきた。
チャンスもあって、能力もあるのに、なんとも出来ず、経済的に衰退していく日本。
がんばってもやりがいのない日本。どうせがんばるならアップサイド、成果が上がるほかの国で。
そりゃそうだ。
とりわけ政策がかかわる事柄では、やれることが多くあるのに、とても実現しそうもない。他愛もないことで。しかも、それは変えることができない。
政治はだめだが、企業は頑張っている、という社説に驚いた僕の中国帰りの友人。日本企業、大企業は全くだめじゃないですか、と。
いやそうだけど、政治が100点満点で0点なら、大企業は1点。あるいは政治はいまやマイナス。価値破壊をしているから、大企業が0点でも無限大にましなんだよ、と答える。

では、自分はどうするか。

僕は日本とともに生きる。それは選択するものではないからだ。


頑張って日本を何とかするなら、守るべきものと捨てるものを分けないといけないと、友人。

日本のうち何を守るか。誰を守るべきか。

そういう発想はありえない。日本人はすべて守らないといけない。しいて言えば、日本社会を守るということか。そこから漏れていく日本人は対象外。
強いもの、守る価値のあるものを守るわけではない。日本を守るのだ。日本には強いところも弱いところもある。それは切り離せるものではない。日本というものを守るのだ。もし優先順位をつけるのであれば、家族、仲間、日本人という順番だろう。
実際には、弱い人ほど守らないといけない。守るというのはそういうことだ。強い人々は海外に脱出するし、チャンスを得ていくだろう。しかし、日本に残り続ける人々、残っているという発想すらない人々。彼ら、いや、我々は、生きていかなければいけない。

日本は米国とも欧州とも違う。日本こそ究極の自治社会だ。国家でない。
米国は契約国家。チャンスを求めて集まってきた人々の国。そして土着民を追い出して、理想の自分たちの国を作りあげた国。ここが好きな人は歓迎する。ただし、役立つときに限り。
欧州。貴族、王族の支配する世界。人々は駒、道具、面倒な統治対照。反乱されればコスト、動員できれば有用な駒。彼らにとっての国のあるべき姿とは、自分たちにとっての国の姿。となりの王国に勝つための国。それが国民国家。国民は制約条件であり、リソースでしかない。主体ではない。民主主義は動員のための虚構あるいはメカニズムだ。

日本。なんでもない。
為政者は昔から不在だ。せいぜい占い師か。
だから、今リーダーがいなくて当然だ。
日本においては、統治者はもともといない。
中央集権だったことはほとんどなかった。
コミュニティのあるいは集落の寄せ集め。
豪族はいたが、国家とならなかった。
だから、欧米とは全く異なる国家概念。
国同士の戦いとして生まれたわけではなかった国家。
そもそも国家は存在しないと言ってもいい。
江戸時代の藩の統治が唯一の政治的プロセスではないか。あるいは、今の日本の原点。江戸時代は長かったから、あそこで社会の文化が固まった。
しかし、最大の特徴は、藩同士は争うことはない。江戸とも敵対ではない。すべて内政。家族的経営。外敵なし。これが日本の政治だ。
だから、今のリーダーも、うちのお殿様なのだ。
だから、いい奴で、親しみがあるお殿様がいいのだ。
たまにぐいぐい引っ張ってくれるお殿様がほしくなる。
例外は、外敵が現れたとき。そのときの対応が国家の構築となった。
大化の改新と明治維新。
外敵脅威が現れて、やられないように、国を挙げて日本を守った。あるいは日本を守るために国を作った。
戦後は異なる。もう負けた後だ。外敵脅威はない。内的復興だけが目標だった。だから、それは得意だった。そして国家はいらなかった。一部のトップに任せておけばよかった。ほとんど選択肢はなく、東西冷戦の中で無難に内的復興に集中できる体制を作ればよかったから。

したがって、欧米の国家とは日本の国家は異なる。例外的に成立していた国家も違う国家だ。なぜなら、欧米の国家は守りでなく、攻めだ。隣の国を倒すための動員メカニズムとしての国家だ。

日本は守るための国家だ。だから覇権争いなどできるわけもないし、誰も望んでいない。企業も同じだ。覇権をアップルに取られても問題ない。覇権など取る気がないからだ。日本市場が守られればそれでいいのだ。守れなくなってくると、ちょっと困る。
それが企業にとっては、自分の組織を守ることだ。右上がりを前提とした組織は、成長しないと困る。だから、日本市場を守るのも重要だが、縮小する日本経済では足りないから、世界市場にも出ないといけない。ただし、世界一になる必要はない。成長市場で売り上げが上がって、自己の組織が右上がりになればいいだけのことだ。

こういう国だから、欧米流の覇権を握るということが最終目標になっているリーダーシップが日本にないのは当然だ。日本でリーダーといえば、職場のチームリーダーで、コミュニティを引っ張っていける人だ。ヴィジョンなんているはずがない。そんなたいそうなものを振り回されたら困る。

このような前提で、国家、政治、リーダー、政党、政策を考える必要がある。

それはトップダウンアプローチではありえない。いわゆるリーダーシップでなく、ヴィジョンでもない。それらを欲求することはむしろ日本を混乱させるだけだ。

しかし、ボトムアップでは足りない。上から目線は嫌われるし、下に媚びるのも間違いだ。だから、支持率だけを気にする、国民の声をよく聞いて決める政党は全くだめなのだ。

横から目線だ。同じ目線で、キャッチボールをする。親分と子分。チームリーダーとメンバー。そのキャッチボールが日本の政治だ。

田中角栄は、ヴィジョンではないし、国家リーダーではない。絶大なるチームリーダーだった。小泉はちょっと変わった親分だった。そういう人が好かれる。そういうスタイルをとるしかないだろう。

新しい日本の政治の形は、もっと自然に生まれてくるように、我々がこれから立て直し、育てなければいけないのだ。