日本の教育論議には、欧米諸国には見られない、著しい偏りがある。それは、「生まれの不平等」に対する鈍感さである。
アメリカの社会哲学者、Fishkin(1987)は、教育問題には、同時解決困難な目標が3つあることを指摘した。
1.メリット(能力主義)
2.家庭の自律性
3.教育機会の平等
日本の教育論議では、1のみが追求され、2は当然のこととして議論にもならず、3が忘れ去られている。「誰でもやればできる」という、特に根拠のない幻想が、教育機会の不平等を覆い隠している。
「生まれの不平等」による学力の格差、その結果としての学歴格差、その再生産による階層の固定化という問題は、他国では重大な教育問題として認識されている。
米国では人種間の格差の解消が60年代に追求され、スクールバスを運行し、「良い学校」に、スラムの住人が通学できるようにしたり、少数民族を優先的に入学させるアファマティブアクションが行われた。
英国では、11歳で進学組と就職組にコース分けしてしまう(イレブンプラス)が廃止され、中等教育を統合する総合化政策が採られた。
他の欧州諸国でも、似たような政策が採られた。各国は、「生まれの不平等」を解消しようとしたのである。
日本では、「生まれの不平等」は、一種の貧困問題として認識されていたが、1950年代で、その議論は終わってしまった。経済成長により、総中流化が進行し、貧困問題が解消されたからである。
しかしながら、豊かになった現在でも、「生まれの不平等」は存在している。上層ノンマニュアルの親を持つ生徒は、おしなべて成績が良い。いわゆる主要科目だけではない。体育や美術や技術科といった実技系科目においてすら、上層ノンマニュアル出身者は成績が上位なのである。面接入試や小論文入試を行なっても、やはり、上層ノンマニュアルの子弟は通りやすいだろう。
そして、上層ノンマニュアルの子は、進学や就職において有利なポジションを占め、階層を継承し、格差は再生産され続けている。
(SSM社会移動度調査 不平等社会日本 佐藤 2000)
第14次中教審は、有力大学入学者が、特定私立一貫校出身者による寡占状態になっていることを指摘し、1校あたりの入学者数の上限を設けることを提案して、マスコミで大きな話題になった。
彼らは、学力格差の原因を、教育費を支出する家庭の経済状況によるものだと考えたのだが、実は違う。学費の高い中高一貫私立校が台頭する以前から、公立校出身の上層ノンマニュアル出身者によって、有力大学は独占されてきたのである。
現在の教育学研究では、教育費ではなく、家庭の文化資本の差が、学力格差の原因だと考えられている。また、農村部と都市部との間の学力格差も大きい。性別による成績格差もある。
学力格差が遺伝的なものでないとするならば、「生まれの不平等」を放置することは、人的資源を有効に使っていないということであり、人口減少社会では、その不利益は大きい。単に、上層階級の家庭に生まれたというだけで、進学、就職に有利なポジションを占めてしまうのでは、優秀な人材が活用されない。
では、どうすればいいか。最初に述べたトリレンマを思い出していただきたい。「生まれの不平等」を縮小させるには、「成績主義」か「家庭の自律性」を犠牲にすればいいのである。
つまり、より低学力の子が進学しやすくしたり、家庭外における幼児教育を振興すればいいのだ。
学力の順番に依らない選抜を容認した方が、長期的には、人的資本の開発につながる。
九州大学の数学科が女子枠を設けたことは、その点で、非常に的を射ていたと思われるのだが、「成績主義」しか頭にない日本の世論には受け入れられなかった。
医学部入試の地域枠も、入試学力が、単に、出身階層の差を反映しているだけだと考えれば、低学力者が合格しても、大した問題ではないと思われる。