言語文化の違いをどうするか --- 山中 淑雄

2013年07月24日 14:08

松井力也著『「英文法」を疑う』(講談社現代新書)は、日本語で考える日本人と英語で考えるガイジンとはしょせん議論がかみ合わないというのが一つのテーマであるが、そのあとがきには次のようにある。

日本語の自己とは相対的な自己であり、相手の立場や他者の視点、過去や未来へと、対象を捉えるたびにあちこちへと飛び回って、対象に同調、同化することでコミュニケーションを円滑にしようとします。そこではそのように飛び回る能力が高ければ高いほど価値があるとみなされることになります。他者に同調し、「人の身になって」「人の気持ちをよく察して」「相手を思いやって」行動する能力が美徳となり、過去に同調し、まるで今もそこにいるかのような錯覚を与える言語表現が美しいと感じられます。
一方、英語の自己とは絶対的な自己であり、ゼロから規定され、がっちりと現在に固定されています。自己がひとつの場所に固定されている言語文化なのですから、英語の世界においては、その自己が唯一独特のものとして他との差異を明確にし、ゆるぎなく、しっかりと固定されている、その固定の強度が高ければ高いほど価値があることになります。
日本人は、他者との接触において、自らの自己を主張するのではなく、自らを相手に同調しようとする方向でのコミュニケーションを志向します。一方、英語話者は、自身のあり方を主張し、自らの立場を明らかにすることで相手と対峙しようとします。
英語話者とのコミュニケーションにおいて、日本人が自己主張できないとよく言われるのは、単に英語が下手だとか、自分に自信がないからとかいったような問題ではなく、むしろ、相手の出方を伺い、相手の考えを察して、それに同調していこうとするコミュニケーションのスタイルが私たちにしみ込んでいるからであり、また、あえて自分のほうから強く主張せずとも、相手が察してくれるだろうという相互依存的な関係に慣れているからです。

松井氏の言う日本語による思考や日本人の主張の仕方が、まさに現在の慰安婦問題や頻発する政治家の失言、あるいは大衆に迎合するジャーナリズムなどの問題の根底にあると思う。ここでは日本語と英語の言語文化についての比較しかしておらず、私は韓国語や中国語の言語文化が日本語と英語を対極としたときにどのあたりに位置づけられるのかは知らないが、韓国人や中国人の物言いや考え方は日本人がなじまない、日本人の身についたやり方ではお互いに理解できないもの同士だと考えてよいだろう。

慰安婦問題に関して福島瑞穂氏や朝日新聞は、“他者に同調し、「人の身になって」「人の気持ちをよく察して」「相手を思いやって」行動する能力が美徳となり、過去に同調し、まるで今もそこにいるかのような錯覚を与える言語表現”でこの問題を煽ってきたし、これまでの日本政府の公式声明は、“あえて自分のほうから強く主張せずとも、相手が察してくれるだろう” という甘えに基づくことは衆目の一致するところである。

日本の政治家の発言の多くは、“相手の立場や他者の視点、過去や未来へと、対象を捉えるたびにあちこちへと飛び回って、対象に同調、同化することでコミュニケーションを円滑にしようと”する動機に基づくものであり、“自己が飛び回る言語文化なのですから、そこではそのように飛び回る能力が高ければ高いほど”優れた政治家という幻想を大衆は抱いてしまう。

もちろん私は橋下氏だけのことを言っているわけではない。ほとんどの政治家は“ゼロから規定され、がっちりと現在に固定された絶対的な自己”など持っていないから、“対象に同調、同化すること”に失敗した時にはいとも簡単に前言を翻し、誤解を与えたことを深謝することによって同調、同化の再構築を試みるのだ。

この誤解を与えた、という口実も一見謝っているようだが実はそうではない。私は正しいことを言っているのだが、その真意が十分伝わらなくて聞き手のあなたが誤解した、と言い訳をしているだけで、実際のやり取りを聞いてみれば真意が十分伝わらなかったための誤解などはほとんどないのに、我々はそれはそれで受け入れてしまう。まさに松井氏の言う“同調、同化する”言語文化にどっぷりと浸かっているからに他ならない。
 
“自己が飛び回る言語文化”に浸かった政治家の発言や大衆に迎合するジャーナリズムは国内問題であり、個人個人がそれらの欺瞞性を見破ることのできる自己を築けばよいだけの話だが、慰安婦問題のような外交問題についてはどう対応すべきであろうか。

私は30代の半ばから30年以上イギリスの会社の日本法人に勤務し、英語によるコミュニケーションには否応なしに慣らされてしまった。その中には意見の相違から徹底的な議論が必要だったことも度々ある。そして自然に身についたのは相手の論理を使えということである。松井氏はこう述べている。「僕は、英語話者と英語で会話するとき、言葉のみならず、自分の性格や人格そのものまでもがいつもの自分と微妙に違う、(中略)英語で話すときは、知らず知らずのうちにはっきりしたものの言い方を心がけている自分を感じます。」まったくその通りで、英語でしゃべる、英語で文章を作る、というときには思考のみならず時には性格までもスイッチを切り替えることが必要なのだ。

慰安婦問題に限らずデリケートな外交問題に関する公式見解は日本語の言語文化の下で起案されたもので、そのまま英訳したものは英語の言語文化にいる人々にはあいまいで意味不明のものが多いに違いない。言語文化の違いによって誤解の種を自らまいているのであるから、相手の誤解を責めるのは間違っているし、あとで誤解を与えたと謝っても日本人同士のように相手は同調、同化はしてくれない。日本語の言語文化がユニークなものであり対外的には通用しないことを認識し、対外公式声明は英語でまず起案しそれを骨子に作成するというが必要だと思う。(そんなことはとっくにやっているけれども、最終的には政治家の言葉に変えられてしまうのかもしれない。)

山中 淑雄
元外資系企業社長

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