他者の「言葉」を不快に感じるとき --- 髙橋 大樹

2014年05月12日 07:43

私たちは社会生活を営むなかで、論理的な議論や書かれた資料などの果せる役割をすこし過大評価してきたのではないでしょうか。企業の現場での13年の経験や大学院での7~8年の社会科学の理論研究の経験などを通して、私は今そのように強く感じています。


本稿では、「知識とは暗黙的なものである」というマイケル・ポランニーの考えを見ていくことで、現在の社会生活の営み方をすこしずつ見直していくきっかけをつくりたいと考えています。簡単に言えば、言葉で行われる議論や書かれたものや画像や動画などはもっと有効な形で活用できるはずだし、また私たちの多くは実際に自分の身体を使って知ることにより重きを置くようになると思われます。また暗黙的知識の考え方を理解できれば、各自がより意味を見出せる作業の量が社会のなかに増えていき、「私たちは遊びも仕事ももっと楽しんで生活できるようになれるだろう」と考えています。

ポランニーによれば、人の赤ちゃんとチンパンジーの赤ちゃんの知性の比較実験が1930年代に行われたといいます。その比較から得られるメッセージは、「知識とは基本的に人間が言葉をもたない動物と共有しているものであり、人間が使用する言葉はその成長を手伝う1つの道具である」というものです。

人間が動物と共有するものを、ポランニーは「知性の無言の行為」とか「無言の能力」などと呼んでいます。それは脳の神経の痕跡を含む身体の内部プロセスと深く結びつくものです。脳のなかの痕跡は、思い出せる範囲を越えた過去の膨大な経験の連鎖のなかで形づくられますが、それと関係するある対象物を私たちが見るときには、その対象物を手がかりにして過去の膨大な量の経験の記録を追跡できるのだとポランニーはいいます。言い換えれば、私たちは今まさに注目している対象にたいして、自分の内側からなにか言葉にならないものを投射しているというのです。

例えば、特徴のない背景に対して置かれたボールが強制的に膨らまされるという状況を私たちが見るとき、多くの人はそのボールがあたかも自分の方に近づいて来たかのような錯覚を起こすと言われています。このとき私たちが投射している身体の内部プロセスについて、ポランニーは次のように説明しています。つまり、私たちは赤ちゃんのときにおもちゃのガラガラが近づいて来たり離れて行ったりするのを見て、それを交互に膨らんだり縮んだりしていると見るのか、あるいはその大きさを保ち続けながら距離を変えていると見るのか、そのいずれかを選ばなければならなくて後者を採用した。そして、その暗黙のルールを膨らまされたボールに対して投射することにより、ボールが近づいて来たという錯視が起こるのだというのです。

このようにポランニーの考えによれば、私たちの知覚には過去の経験のなかで脳に残された痕跡と結びつく一連の暗黙のルールの投射が含まれています。ここで、知るという行為における言葉の機能について考えたいと思います。ポランニーの考える言葉の機能としては、基本的に以下のものが挙げられます。
(1)経験を記号化・表現する
(2)動物のむき出しの記憶力を助ける(記録・保存・持ち運びできる)
(3)事実や感情やメッセージを他人に伝える
(4)適切な記号化と操作を通じて知性・思考の力を高める
(精密科学になるほど経験との接点が減少していくとポランニーは考えます。)

以上のように考えると、言葉で指し示されるものごとに関する私たちの知識も、やはり経験によって得られてきていることになります。つまり、動物がものごとを知っていくやり方と同じだということです。したがって、何らかの専門分野の言葉を学ぶことは、それだけではその主題を十分に理解することにはなりません。

この点をポランニーは、肺疾患のX線診断の講習に参加する医学生について考えることで説明しています。ポランニーによると、患者の胸部X線写真についての放射線科医の専門的な説明を横で聞く医学生は、事前に専門用語を学んでいたとしても当初はその話をほぼ理解できません。というのも、医学生はX線写真上に心臓・肋骨の影ともやのかかった斑点しか見ることができないからです。しかしその後も数週間、さまざまな症例のX線写真を注意深く見ながら説明に耳を傾け続けると、徐々に肋骨のことを忘れて肺が見えるようになり、暫定的な理解が得られ始めます。そして忍耐強くやり抜くことができれば、生理的変動、病的変化、瘢痕、慢性感染症、急性疾患の兆候などの詳細に関する新しい世界が漸く見えてくるというのです。

このように、言葉はそれが指し示している主題と一緒に理解される必要があり、また主題のものごとは自分自身の身体をもって理解されなければならないのだとすれば、一個人としての私たちは、自分を中心とする狭い範囲の出来事だけしか実際にはよく知ることができないということになります。また言葉ばかりに目を向けてしまうと、主題と言葉がばらばらになってしまう恐れがあるということにもなります。ポランニーによれば、私たちの知性はそのような場合に不快感を感じるのだというのです。

私はまだ35年半しか生きていませんが、「知るということ」に関してこれまでの経験を振り返り考えると、現時点ではポランニーの考え方が大きな説得力を持っているように思えます。また日常のさまざまな場面で、リアリティと言葉の関係がうまく合っていないことに起因する不快感の表出に直面することが多いように感じています。私たちがリアリティにより接近していくことを可能にしてくれる有効な道具として言葉を使用することができれば、私たちは社会生活のささいな営みの中にもより多くの意味を見出すことができ、小さな楽しみを増やしていくことができるのではないでしょうか。

一個人の知識の範囲の狭さを前提とする以上のような考え方は、他の人たちとの交換や協力がもたらしてくれるものの大きさを高く評価することにつながります。またそれらの恩恵を得るために私たちが守らなければならない社会生活のルールとしては、強制・暴力・詐欺・だますことの禁止や、論理で理解しにくい他人の行為の邪魔をすることの禁止、また仕事の面で競合となりうる人への妨害行為の禁止、などが必要になると考えられています。

以上、今回は人間を「迷路を走りながら学ぶネズミ」にたとえる知性の考え方を主に見てきました。次回は「市場経済がもたらす豊かさとそのためのルール(仮)」のようなテーマで書いてみたいと思います。

髙橋 大樹
twitter: @takahash_hiroki
LINE: takahash_hiroki
e-mail: h.takahashi1025(at)gmail.com
近刊書籍の『組織・戦略のための経営知識の理論』(中央経済社)で「暗黙的知識の利用と企業におけるリーダーシップ」というタイトルの原稿を書いています。私たちは自分を中心とする狭い範囲の出来事だけしか実際に知ることはできないという視点から、企業やプロジェクト・チームにおけるリーダーと他のメンバーの間の役割分担について考えています。またポランニーやハイエクなどの引用も見られます。ぜひ読んでいただけるとうれしいです。

【参考文献】
Polanyi, M. (1962), Personal Knowledge: Towards a Post-Critical Philosophy, The University of Chicago Press; 長尾史郎訳(1985)『個人的知識―脱批判哲学をめざして―』(ハーベスト社)
Polanyi, M. (1967), The Tacit Dimension, The University of Chicago Press; 高橋勇夫訳(2003)『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫)

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