ネットが普及し始めて20年になります。このところ、かつてMITメディアラボのネグロポンテ教授が唱えた「アトムとビットの結合」を思い起こさせる事例にいくつか接しています。
さきごろ福岡の少年たちが決闘罪で送検されました。LINEで中学生たちが約束して決闘し、約100人がこれもLINEで集まって見物したといいます。
「LINEで約束して殴り合った中学生たち」
http://www.bengo4.com/topics/1860/
この決闘罪というのは、刑法が定められる以前、120年以上前に定められた法で、これまで適用されたこともほとんどなかったそうです。一世紀前の社会をソーシャルメディアが掘り起こした。タコつぼ的なコミュニティが決闘を促し、観客動員もしやすくなったんですね。
グループ名を持たない「名無し」の暴走族集団が増えているという記事もありました。ツイッターやLINEで集まって走るソーシャル暴走。集団のルールに縛られるのはイヤ。リーダーも組織もない。集まりたいときに集まって走る。ルールを崩して目的に純化する、それはパンクと呼びます。それをデジタルが助長しています。
「名無し上等、暴走族 「ばかばかしい」名称付け減る傾向」
http://www.asahi.com/articles/ASG7G44VSG7GULOB013.html
このあたり、よんどころない社会変化を示していますよね。ニコ・メレ著「ビッグの終焉」が説く「リーダーも階層も拠点もない、プロセスも文脈もない」というコミュニティへのパワーシフトが暴走界にも来たということでしょうか。いや、暴走界のほうが政治や経済より順応性や柔軟性が高くて、ソーシャル度が高いんでしょう。
(ブログ)「「第五の権力」と「ビッグの終焉」」
http://ichiyanakamura.blogspot.jp/2014/08/blog-post_18.html
池田信夫著「「空気」の構造」に、日本の農村社会の水利秩序がボトムアップで、個々の現場がタコツボ化して、中枢機能が弱い例が紹介されています。それをデジタルが再現しているんでしょうかね。
(ブログ)「池田信夫 「空気」の構造(上)–日本人論の再構築」
http://ichiyanakamura.blogspot.jp/2013/09/blog-post_23.html
にしてもマイルド暴走ってのは純真ですな。かつてギター少年は不良でしたが、今や目的意識の高い子扱い。暴走野郎もそうなるんでしょうか。タコつぼの濃いコミュニティで決闘を促す作用と、コミュニティを崩して暴走する作用。どちらに向かいましょうか。
個人の存在もネットに依存するようになっています。
オンライン求人サイトの米CareerBuilderによれば、51%の採用担当がソーシャルメディアを見て不採用を決定したそうです。「応募者のソーシャルをみて採用を決めた」という人も33%。履歴書や面接より、ネット履歴のほうが人物を示す。人格はリアルの面接よりバーチャルでの蓄積がモノを言うようになったのですね。
「「SNSの投稿内容が原因で不採用」は5割」
http://news.mynavi.jp/articles/2014/07/22/sns/
これもネット履歴ですわね。記事中、南カリフォルニア大学のウィリアムズ准教授は、多人数参加型のオンラインゲームで熟練したプレーヤーは戦略立案とチーム編成で突出したスキルを見せるとしています。
「ゲームの戦績、履歴書に書けば就職に有利?」
http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052702303959804580090641944768322
組織体系も社会構造も流動化しています。タコつぼ型のコミュニティが無数に生まれて、外からは不透明になると同時に、それらが連結し、崩壊し、また別のコミュニティになっていく。そうした中で、個人は主体性を高めていますが、でもそれはみなネットにより記憶され、自らを縛る。
この20年。生まれながらにしてネット生活をする世代が社会に進出し始め、リアルとバーチャルの結合はもはや「変化」ではなく、「定着」したようです。
(つづく)
編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2014年10月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。