天皇が年頭所感で満州事変に言及したことが話題になっているが、原文は次の通り:
本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています。
これは太平洋戦争だけでなく、1931年以降の「15年戦争」全体を考えるべきだという意味だろうが、このように30年代以降の戦争を一まとめにするのは間違いのもとだ。そもそも1931年9月18日に始まった満州事変から1945年8月15日までは14年足らずであり、15年戦争という名前がおかしい。
特に満州事変と日中戦争の違いを認識することは重要である。前者は明治維新(あるいは幕末)から一貫するロシア南下に対する防衛戦であり、戦略的な必然性があった。これは膨張主義といわれればその通りだが、全陸地の80%を領土にしたヨーロッパ諸国に比べれば、ごく控えめな膨張主義だった。
それが国際法にいう「侵略」だったことも間違いないが、丸山眞男もいうように、侵略という概念は1928年の不戦条約でできたもので、それ以前のヨーロッパ諸国の植民地支配は不問にして、その既得権に対する挑戦を違法化するご都合主義である。リットン調査団は日本の権益を認めたので、日本が国際連盟を脱退する必要はなかった。
川田稔氏も指摘するように、満州事変は関東軍の突出ではなく、陸軍中央の計画的な行動だった。永田鉄山も石原莞爾も、日本の戦力が不足していることを認識しており、対ソ戦だけで精一杯だと考えていた。日本の満州支配は、イギリスなどの植民地支配のように現地から掠奪するのではなく、満州に物資を供給して対ソ戦の橋頭堡にするもので、その収支は大幅な赤字だった。
最大の岐路は、満州事変より1932年以降の関東軍の南進にある。参謀本部に戻った石原はこれに強く反対したが、関東軍参謀の武藤章は「われわれは柳条湖で閣下がやったようにやっているだけです」と一笑に付した。その後も陸軍は上海から南京に戦線を拡大し、収拾がつかなくなった。
日中戦争(支那事変)は満州事変とは違ってまったく計画性のない、なりゆきまかせの戦線拡大だった。補給体制もなかったので「現地調達」になり、予備役まで動員されたため、軍紀が乱れた。「南京大虐殺」といわれるほど大規模な民間人の殺害があったとは考えられないが、そういう素地はあった。
だから戦争が泥沼化した最大の責任は、武藤に代表される陸軍の中間管理職にある。そしてこういう「空気」が醸成されたとき、政治家やマスコミが軍部より突出したタカ派になり、「爾後国民政府を対手とせず」という近衛声明で、日本は引き返せなくなった。
このように30年代の戦争は一貫した「15年戦争」ではなく、そのつど短期決戦で勝負がつくと考えて戦線を拡大し、失敗しては別の人物が同じことを試みる繰り返しだった。戦争中にも軍の指導者が3~4年のローテーションで転勤するサラリーマン型の人事システムで、戦略の一貫性が失われた。
指導者が代わっても、現場が実質的に決める下剋上の力が強く、彼らは既成事実を前提にして部分最適を求めるので、いったん決まった方向が変えられない。その方向を変えるべき内閣が決断できなかったことが命取りになった。
戦後70年の教訓として日本が学ぶべきなのは「軍部の暴走」ではなく、責任不在のまま誰も望まなかった方向に政府が脱線していったことだ。こうした意思決定の欠陥は、バラマキの短期決戦をやめられない安倍内閣にも受け継がれている。その教訓を理解する上で「15年続いた侵略戦争」という見方はじゃまになる。