「街ネコ」考

若井 朝彦

街ネコという生き物がいる。食べ物は人間に依存しているが、いざサカリとなればほとんど野生。だが子育てはヘタな方。飼いネコでもなく、のらネコでもなく、準フリーランスのネコのことといったらよいだろうか。しかしネコという生物は、完全な家ネコだってどこかフリーランスなところがある。

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京都には中心部にもまだそんな街ネコがいる。四条河原町を中心として、おおよそ300m半径にはほとんど生息しないだろうが、そのすぐ外なら立派に存在すると思われる。(大阪の梅田だって、中崎町あたりにまで行けば、きっといるのではなかろうか。)

そしてそんな街ネコを見れば、景気がわかる。それは景気の本質ではなくて、株価かもしれないが。

1990年代の前半、いわゆる平成不況で街ネコは激減した。その後ゆるやかに回復したが、2008年のリーマンショックではまた減。以降ふたたび回復基調が続いて現在に至る。

これは相関関係ではなく、景気がネコに影響を与えているという因果関係である。ふらりとやってくるネコにエサをやろうという、フトコロの余裕、ココロのゆとりがなければそうはならないのであるから。(したがって、強引に街ネコを増やしたからといって、景気がよくなるということは決してなく、だからもしネコの数量ターゲットを考えている方があれば、それは虚妄である。)

さて、そんな街ネコも、最近微減である。というのも京都市の通称「餌やり条例」(正式名はあるはずだが、この稿ではくわしい調査を省略)が施行されたからである。自分の飼い猫でもないネコに、またハトとかに、エサ場をつくって勝手にエサをやってはいけません、という規則である。具体的な罰則はあったのだろうか。ご興味の方は検索してみて下さい。

ともかくこれには効果があったようである。市の係りがどうのこうのと注意する前に、周囲の人が注意しやすくなった。もちろん自制効果もあったと思われる。わたしの行動範囲では、ネコを集めてエサをやる人は見なくなったし、それにしたがって街ネコの数はやや落ち着いたようである。

わたしはこの結果に好意を持っている。最近、ネコの数はやや過飽和で、結局ふえすぎて子供を十分に育てられないネコも、目についていたからである。また放置されたエサに、イタチが寄ってくるということもあった。

京都では、街ネコのいるやや外側には、イタチもいるのである。イタチどころか、昨年のこと、まったく街中でタヌキを見た。夜間にやや遠くに個体を見た。「それは野生化したアライグマだったんじゃないか」という人もあったのだが、有効な反論ができないでいる自分が悔しい。すくなくともイヌでなかったことは確かだったと、この場を借りて主張しておきたい。

ともかく京都では、ネコへのエサやりが過ぎて、イタチまでトロトロ歩くようになっていた。これはイタチの将来にとっても、あまりよい状態ではなかったと思う。

条例そのものには反対もあった。今生きているネコを死なせるわけにはいかない、という意見である。わたしはこの意見にも反対しない。

そう考えてこっそりにしてもエサをやる人がいるから、京都の夜の裏道の風景でもある街ネコの数は保たれている。ただ、エサ場はそのままに、そこにくるネコを去勢避妊手術することでネコの数をコントロールしよう、という意見には同意しづらい。

ネコもネコによってサカリのつきかたも万別だろうが、一週間も家を空けて、やせ細ってドロドロになって帰ってくる、そんなオスネコを見るにつけ、そんな彼らの本能の誇りを人間が勝手に取り除くのは、人間の傲慢ではなかろうかと思う次第。

以上がさしあたってのわたしの考えだが、くわしい方、よく観察されている方、実際にネコの世話をしている方から意見を聞けば、再考することになるかと思う。

ところで、先ほどは株価とネコのはなしをはさんだが、株価はともかく、地価はネコにとって敵である。ひとたび高騰して木造二階建てが減ると、街ネコは確実に棲家や子育ての路地や、通行の屋根を失うからである。食は、人間とネコの相互の工夫でなんとかなることも多いのだが、住となるとさらにむつかしい問題だ。

 2015/11/19
 若井 朝彦(書籍編集)

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