命の値段の経済学

2016年01月05日 11:30

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人の命を経済計算にのせることは、その反倫理性にもかかわらず、現実には、不可避である。ある種の危険について、人の命の安全性にかかわる基準を、科学的な想定の遥か上のところに設定すれば、費用は、当然だが、著しく大きくなり、その費用を価格に反映させれば、経済的になりたたなくなるからである。


生命の安全性については、完全な市場原理のもとでの経済計算を適用することはできず、規制によって安全基準の下限を定めなくてはならない。しかし、その規制といえども、一定の経済合理性のなかでなければ機能し得ない。

原子力発電所の安全規制基準は、マグニチュード9を遥かに超える地震にも、40メートルの高さの津波にも、耐えられるように設定しておくべきだろうか。そのことの費用を電力料金に反映させても、消費者は納得するのであろうか。火力発電等との価格競争力との関係で、原子力発電が経済的な意味をなさないということになったとして、それで、国民生活の基礎ともいえる電力の安定供給体制を維持できるのだろうか。

これは、経済合理的な政治判断によってしか、決し得ない問題である。国民の選択である。日本の原子力事業もまた、国民の選択のもとで行われてきたのである。国民の立場からは、その過去における選択を批判できない。将来に向かっての選択の変更があるだけである。

原子力事業については、合理的な想定を超えたところに、ゼロではない微小な確率のもとでの危険が、いわば、賭けの要素が、根底に潜む。国民の選択は、その賭けのうえにあったはずだ。高度の技術力は、事故確率をより小さくするにしてもゼロにはできない。高度な技術力によっても、安全を神話化することはできないのだ。

原子力事業と国民の安全とは、合理性のなかにおいては均衡させることができる。つまり、国民の安全は守られ、同時に、原子力発電の恩恵も受けられる。それが、経済合理性だ。しかし、微小な賭けが現実的な危険に転化したとき、経済計算は終わる。いや、終わらせなくてはならない。ここに、経済法則と倫理の絶対的な境があるのである。

日本では、原子力事業は、民間の事業である。故に、事故における政府責任の果たし方こそが、原子力事業の遂行にとって、決定的に重要なのである。経済合理性を超えたところで、国民の安全を断固守れるのは、政府だけだからである。ここに、国策としての原子力事業の本質があるのである。

原子力事業を継続するならば、政府の機能として、安全基準の設計というような規制面のことは当然として、より重要なことは、万が一のときには、政府が全面的に責任を負うという確約である。

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
HC公式ウェブサイト:fromHC
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