澤昭裕さんの思い出 --- 中村 伊知哉

エネルギー政策の第一人者、ぼくが尊敬する政策のプロ、澤昭裕さんが1月16日、膵臓癌で亡くなりました。

冷静で現実的な政策を打ち出し続ける方でした。エネルギー政策の腰が定まらない我が国にとって、痛い損失です。ぼくも大きな指標を失います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%A4%E6%98%AD%E8%A3%95

澤さんが今年の正月「私の提言 ―総集編―」とするエネルギー政策総まとめを示し、しばし身を引くというので、ちょっと気になっていたんですが、まさかの出来事でした。
http://ieei.or.jp/2016/01/sawa-akihiro-blog160104/

澤さんの功績については、池田信夫さんのブログや、
「澤昭裕さんへの最後の手紙」
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51968925.html

石井孝明さんのVlogでも語られているとおりです。
「澤昭裕さんを悼む」
https://agora-web.jp/archives/1667405.html

エネルギー政策についてぼくには語れるほどの知見がありませんが、澤さんとのことは記録しておきたい。

ぼくが郵政省で「電気通信基盤充実法」の担当補佐として通産省と協議した1991年、カウンターパートとして現れたのが電子政策課の補佐、澤昭裕さんです。年次でいうとぼくの3つ上。霞が関での3つ違いは二等兵と伍長ないし軍曹の開きがあります。その威圧感たるや。

通産・郵政戦争と呼ばれる縄張り争いが収まっていないころ。新法を作って通産省と折衝するというのは死地に赴く覚悟でして、ぼくはこの上なく緊張しました。

澤さんをヘッドとし、片瀬裕文さん(現 通商政策局長)、宗像直子さん(現 総理大臣秘書官)ら強いメンバーを相手に夜を徹する折衝を二週間ほど続けるのですが、ぼくの事前の緊張など覚悟のうちに入らないと涙ながらに痛感させられるほど、それはそれは厳しく対応してもらいました。いやぁ厳しかった。

折衝、協議、説得、調整を経て、最後はここが落とし所、という覚書を結んで両省は決着。最後に「オレってリーズナブルやろ。」と澤さんが見せられた人懐こい笑顔が忘れられません。

仕事ってのは、こうするのか、ということを教えてもらいました。ぼくの血肉になりました。役人になって何年もたった後のことですが、これを経てぼくはようやくプロとしてやっていけるかもしれないという自信を得ました。

その後、ぼくは3年連続で郵政省の法案を通産省と折衝する担当となりました。その間、澤さんは、コンピュータやソフト等に対する政府予算の道を開くため、戦時中の通産・郵政が休戦協定を結んで共同要求する作戦を立てられました。

「両省で要求したら大蔵省も飲むで。」という話を持ちかけられた時は、ぼくとは水準の違うダイナミックな政策を作る人がいるもんだと改めて感心しました。郵政省内をどう調整したかは覚えていませんが、結果としてこの予算は実現。研究機関等へのデジタル投資が拡充しました。

その予算の恩恵を受けることになる筑波大学の江崎玲於奈学長に呼ばれ、随分ホメられました。先生、勘違いです。ぼくの手柄じゃないんです。説明に難儀しました。

1997年、ぼくは官房総務課の補佐として省庁再編を担当しました。橋本行革の省庁再編案として、郵政省解体が明記されることになりました。負け戦が確定しました。巻き返し策を練らなければなりません。

省内の議論は3分されました。1)通産省に引き取ってもらい産業通信省になる。2)運輸省と合体して運輸通信省になる。3)総務省を作る案に乗って潜り込む。

1)産業通信省は通信・放送行政を産業政策とするもの。2)運輸通信省はインフラ政策として逓信省の復活を目論むもの。3)総務省は産業・インフラなど全てを含む独立した行政領域と考えるものです。

省内にとどまらず、自民党を含む大騒動になりました。当時の事務次官ら幹部は通産省に期待を寄せました。通産省は機能を強化して経産省となる勝ち戦が決定、気分はよくなっているだろう。とはいえ、通産省の意向は不明。おまえ極秘で探ってこいと指示されたぼくは、澤さんに聞きに行きました。

「通信放送だけならもらうけど、郵政事業も連れてくるいうのは☓☓☓☓(某宗教団体の名前)を抱えるようなもの。絶対ムリ」と即答。そのまま郵政省幹部たちに伝えたところ「われわれは☓☓☓☓(某宗教団体の名前)か・・・」と絶句して、あきらめることになりました。

結果、総務省に入ることで政治決着しました。今もその形には批判がありますが、当時の中のひとにとっては、最善の決着だったと思います。ぼく自身はそこで役所を辞めることになりましたけど。
(ところで、解体される郵政省を総務省に移行させるための秘密チームをそのころ省内に作り、SMAPと名付けました。でも、SMAP=Strategy group of Ministry Anticipated for Post and telecomとかなんとかつけたのはボスに却下されました。Speed Message Action Power と変えたら承認されました。)

役所を出てアメリカに行ってぶらぶらしていたぼくに、日本から声をかけてくれたのが経済産業研究所(RIETI)です。澤さんが研究部長として作られた組織です。青木昌彦所長、池田信夫さんらの誘いで、ぼくも上席研究員として参加することになりました。

今にして思えば、経産省の組織に郵政出身のぼくを招き入れるのは、澤さんの腕力なくしてはムリだったんじゃないでしょうか。

一方、澤さんは東大に転出して、政策研究とともに大学改革にも当たられます。その後、21世紀政策研究所やアジア太平洋研究所等で骨太のエネルギー政策を発信し続けられました。プロだなぁと思って眺めておりました。

少し前、日米のIT企業がもめている案件の仲裁に入ってやってくれという依頼を受けたのが澤さんとの最後になりました。通産省人脈で来た仕事をぼくに振ってくるのも澤さんらしいや、と思って受けました。受けたら大変な話でしたw

経済産業研究所で目指した「第二霞が関」の梁山泊構想は曲折あって道半ばです。また復活させんといかんよね、という澤さんとの話も途切れてしまいました。

政策屋としてぼくは足元にも及びません。まだ目標にし続けます。澤昭裕さん、ありがとうございました。合掌。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2016年1月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。