日韓関係に関連した「建国記念の日」の意義

昨日の記事では、韓国関係の話を敢えて省いたが、それは語るべき事があまりに多い為に、別の記事にする必要を感じたからである。

現代に繋がる「建国」を巡って、垣間見られる韓国人の屈折した思い

「歴史を直視する」事を日本に求め続けている韓国は、自らが歴史を直視出来ずにいる典型的な「パラドックスの国」だ。この姿はどこか物悲しい。

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の場合は「建国」のストーリーは単純明快で、1948年9月9日に金日成が平壌で建国を布告した日を「国慶節記念日」と呼んで、毎年の祝祭日としている。これは、毛沢東が天安門で建国宣言をした1949年10月1日を「建国の日」と位置づけ、毎年この日を「国慶節」として祝っている中華人民共和国の場合とほぼ同じだ。

しかし、韓国においては、これに該当するのは、毎年8月15日の「光復節」(1945年の日本の敗戦で、この日に日本の支配下から自由になったとされている)と、毎年10月3日の「開天節」(高麗時代に元の支配に抵抗を続けた民衆の間で広まった建国神話では、紀元前2333年に檀君という人物が古朝鮮王国を開いたとされている)の二つの祝祭日だ。

しかし、日本の敗戦後に実際に起こった事はこうだった。1945年の8月15日に、日本の朝鮮総督府は、建物に掲げられていた日章旗を自らの手で下ろして太極旗を掲げ、統治権を総督府の中で働いていた韓国人の高級官僚の手に委ねた。しかし、予想もしていなかった突然の変化に遭遇した韓国人官僚が、半ば茫然自失しているうちに、米軍の進駐が始まり、朝鮮半島の南半分はとりあえず米軍の軍政下におかれた。総督府に掲げられていた太極旗も、統治体制の単純化と効率性を優先させた米軍の手で、再び日章旗に変えられた。

その後、色々な経緯を経て、1948年7月12日には大韓民国憲法が発布され、大韓民国が建国されたが、この憲法の前文には 「三・一運動により建立された大韓民国臨時政府の法統、及び不義に抗拒した四・一九民主理念を継承して」という言葉がある。という事は、1910年に日韓併合条約によって日本に併合されてから1945年に解放されるまでの間は、韓国の正統政府は、上海に設立された「大韓民国臨時政府」であり、新たに生まれた大韓民国は「これを引き継ぐ」ものであるという立場が取られているわけだ。

しかし、この臨時政府は、全面的な資金援助をしてくれた中華民国を含め、世界中のどの国からも結局承認を得る事が出来ず、また、内紛に明け暮れて、殆ど活動らしい活動も出来なかったというのがその実態だった。蒋介石軍と毛沢東軍の双方の中に「光復軍」という軍隊組織も作ったが、実戦で活躍するには至らず、日本軍の中でひときわ勇敢に戦った韓国人将兵の活躍の方が、はるかに目立つ存在だった。

ここに、今もなお反日的な言動を繰り返さざるを得ない韓国人の「屈折した思い」の原点があるのではなかと分析する人もいる。

(因みに、大韓民国憲法は、国会議員の過半数または大統領による単独発議によりいつでも改正できるので、これまでにすでに8回にわたる改正がなされている。)

日本の古代史は「皇国史観」で歪曲された

明治維新以来、軍事面で欧米に追いつくことを悲願とした日本は、キリスト教精神をバックボーンとする欧米人将兵の精神面での強さに対抗すべく、「皇国史観」を日本人将兵のバックボーンにしたいと考えた。この為には「天皇は高天原に降臨した天孫の末裔であり、二千数百年の長きにわたり万世一系の皇統が途絶えることはなかった」という事を強調する必要があり、従って神武天皇の建国神話は極めて重要だった。

しかし、実際の史実はどうだったろうか? 

先ず、神武天皇に始まる「万世一系」は、現在の歴史学者の殆どが否定している。実際には、黎明期の日本の中心勢力としては「三王朝交代説」が有力で、現在の天皇家の血統は、奈良県桜井市の三輪山南嶺を拠点に各地の諸勢力を制圧した「第10代の崇神天皇」からではないかと考える学者が多い。

次に、崇神天皇の後の歴代天皇については、「古事記」「日本書紀」の記述も「神話」から「歴史」へと変質していっているが、第15代の応神天皇、第16代の仁徳天皇から第21代の雄略天皇に至る七人の天皇のうちの何人かは、南宋に朝貢してきたとして南宋側の歴史書に出てくる「讃」「珍」「済」「興」「武」の五人の「倭王」に該当すると考えられている。しかし、日中戦争に備えていた日本の軍部としては、この様な歴史的事実はあまり恰好が良くないので、当時の歴史書では全くと言っていいほど触れられなかった。

最後に、神話時代にさかのぼると、日本の生い立ちは、韓国が大嫌いな日本の国粋主義者にとっては甚だ面白くないものであったかの様に思える。だから、当時の日本の御用歴史学者達は、多くの歪曲を試みた様だし、現時点に至っても「古代における朝鮮半島からの影響」をムキになって否定しようとする人達も数多くいる様だ。

神話時代は日韓が殆ど一体化していた時代だった

日本が大陸と陸続きだった頃からそこに住み、採集経済に支えられた「縄文式文化」の花を咲かせていた「原日本人」に、農耕に支えられた「弥生式文化」をもたらしたのは、どう考えても、「朝鮮半島の東部や南部の海岸線に住んでいた『穢人』や『韓人』『倭人(海洋系?)』と呼ばれた人々(後の新羅人や加羅人)」だったと思われる。

これらの人々は、「漢の武帝の時代に東部に移住してきた漢人」や「扶余や高句麗を建国した穢貊系民族の主流派」に押し出される形で、長い年月にわたって、少人数で断続的に朝鮮半島から渡ってきたに違いない。そして、彼等と原日本人が混血した新日本人が、次第に日本全土に浸透し、現在の我々日本人につながっていると考えるのが自然である。これは後の「渡来人の来航」より十数世紀以上も前に起こった事である。

神話(伝承)の世界にでてくる「高天原から降臨した天孫」とは、実は「朝鮮半島から海を渡ってやってき加羅人」だったと考えても全くおかしくないし、現実に、高千穂岳(万葉字では「久土布流多気」)に比定され得る小さな丘も、福岡県北部の海岸に存在している。また、加羅地方の最初の強力な支配者だったと目される首露王に関わる神話も、日本の天孫降臨神話に極めて類似している。

念の為付記しておくと、これら全ては、勿論、卑弥呼よりはずっと前の時代の事である。

しかし、日韓併合を正当化したかった当時の日本政府は、「古代において朝鮮半島と日本列島の西北部が殆ど一体であったという事実」を、むしろこの目的の為に使おうと考え、学者を総動員して「日本はこの頃から既に朝鮮半島の奥深くまで『進出』していた」という話を捏造する事まで試みた。

その典型的な例は「神功皇后の三韓征伐」という神話であるが、比較的小さな連絡組織でしかなかったと思われる「任那日本府」を、実体の数倍にも拡大して意義付けたのもその一例と言えよう。

当時の日本で指導的な力を発揮していた人々の多くが加羅地方の出身者で、海峡を越えてなお親族間の緊密な交流が保たれていたと考えると、その加羅が新羅からの強い圧迫を受け続け、後には併合されるに至るまでは、事あるごとに援軍を送っていたのではないだろうかと思われる。身重の身を押して海を渡った「神功皇后」の遠征も、その一つであったと推測すれば、何故そこまでしたのかという謎も解ける。また、この観点に立てば、新羅側の伝承に「倭軍が侵攻してきたが撃退した」という話が数限りなく出てくるのも納得できる。

中国吉林省で発見された広開土王(第19代高句麗王)の石碑の写しを日本に持ち帰ったのは日本陸軍の参謀本部に所属しいていた酒匂中尉(当時)だったが、この石碑の中の幾つかの欠字部分を強引に推量して、あたかも「古代の倭軍が半島北部の奥深くまで侵攻していた」かのような荒唐無稽な話までが作られたのは、現代の日本人から見ると恥ずかしい。実際は「新羅を圧迫していた倭軍を高句麗からの救援軍が粉砕した」という事だった筈だ。そうでなければ、広開土王が誇らしげに石碑に記録を残すわけはない。

時は移り、新羅と唐の連合軍に追い込まれていた半島西部に位置する百済に、聖徳太子時代の日本は史上空前の大規模な援軍を送る。(しかし、白村江の戦いで大敗北を喫した為、百済は滅亡する。)これは、勿論、百済が日本に対し仏教をはじめとする数多くの先進文化をもたらしてくれたのに対する見返りであり、バーター取引であったとも言える。

「遠交近攻策」で日本に接近してきた百済と日本の関係は「お互いのメリットを求めた政治的な関係」だが、それに先行して、日本と新羅との間には「どちらが目上でどちらが目下か」に拘る「長年にわたる骨肉の争い」があったと見るべきだろう。

「古代史の日韓共同研究」は両国のわだかまりを解消させる第一歩?

日韓併合条約が結ばれた1910年から日本が敗戦した1945年までの35年間に、日本が朝鮮半島全域を支配したのは歴史的な事実である。また、この条約自体は、国際法上の正当な手続きを踏んだものであり、諸外国も承認したのは事実であるものの、それが武力による威嚇のもとに行われたものであり、多くの韓国人の意に反していたのもまた事実であろう。しかし、残念ながら、韓国にも、日本にも、こういう事実を認めたくない人達が今なお多数存在しているかの様であり、これが両国間のわだかまりの遠因になっている。

このわだかまりが解消され、両国民がお互いに敬意を持つに至るまでには、なお数十年を要するであろうと私は考えているが、お互いに「歴史を直視する」事だけは、すぐにでも進めるべきだと思っている。

「歴史を直視する」という事は、取り敢えずは、自分の価値観(良し悪しの判断)を前面に出す事は抑制し、「事実関係の正確な把握」のみに注力する(不確かな事については異なった解釈を並列的に認識する)事から始める事だ。どちらが勝ったとか負けたとかに拘るのは問題外だし、いかなる場合でも「嘘」や「誇張」はあってはならない。

この為には、どうしても価値観が前面に出てくるのを抑えにくい「近代史・現代史」は後回しにして、淡々と事実関係を究明できる「古代史」から始めるのが良いだろう。日本側の学者でそんな事に拘る人は最早いないと思うので、先ずは日本側の学者が「皇国史観による歴史の歪曲」があった事を認め、これを全否定する事から議論を進めれば良い。

韓国には、「古事記」や「日本書紀」の様な「記録された古代史に関する文献」が、ずっと後世に至るまで存在しなかったので、どうしてもここに引け目を感じてしまい、時代を極端にまで古く遡った「檀君神話」等で日本の建国神話に対抗するかの様な「無用な気負い」が感じられない事もない。そして、こういった事に違和感を感じる日本人も多いかもしれない。しかし、この辺のところは、「お互いに神話は神話として尊重する」のが正しい姿だろう。

今後、韓国や北朝鮮、更には中国の遼寧省等での遺跡の発掘が進み、日本の皇室が管理する日本国内の古墳群の調査等も進めば、更に色々な事実が徐々に明らかになり、両国民が「政治抜きの親近感」を持つに至る事を密か期待している。

松本 徹三