徳川の天下を許した秀吉の大失敗〜創業者と実力社長②

2016年05月28日 18:00

歴史に謎はない(戦国編)

>>創業者と実力社長①「足利と織田」はこちら


秀吉あれだけ秀頼への天下継承が無事にいくことを願っていた秀吉が、德川家康がやすやすと天下を取れる体制しか残せなかったのか誰しもが不思議に思う。だが、それは結果論で、逆に家康が滅ぼされなかったのが不思議なくらいなのだ。

文禄・慶長の役は、無謀でも言語道断の侵略戦争でもなかったのだが、天下統一後の秀吉は、海外戦略に専念するため、家康に東日本を任せた。

また、秀次を排除するとき、秀吉は、家康は家康と前田利家を頼りにして秀頼を支える体制にした。さらに、五大老ははじめ上杉景勝でなく小早川隆景が入っており、秀吉より先に死ななければ、大陸政策は彼が仕切ったし、毛利家は一丸となって動いただろう。

前田利家の立場は、織田家旧臣代表。利家より序列が高かった武将が早く死んだ結果、利家が織田家の血を引く秀頼を支える旧臣グループの筆頭として浮上した。しかも、利家には信長の娘婿である利長という確固たる後継者がいたし、宇喜多秀家夫人や細川忠興の嫡男の嫁も利家の娘だった。

秀吉が死ぬときに、利家が大坂城で秀頼の後見役となり、家康は伏見城で政務をみたが、利家が優勢で、家康は利家がその気になればいつでも除かれかねなかった。

ところが、利家は秀吉の死の翌年に死んでしまう。ここで利長が素直に秀頼の後見役を引き継いでいたら何事も起こらなかったのだが、武断派の諸将が石田三成を襲うのを阻止せず、三成は佐和山に隠棲した。さらに、利長は秀吉の遺言を無視し、母の松を伏見に残して金沢に一時帰国してしまう致命的なミスを犯し、家康は利長に謀反の心ありと難癖をつけ、利長は屈服して母のまつを人質として江戸に送らされ、身動きが出来なくなった。

関ヶ原の戦いのときは、以前に言われているのと違って、北政所はどちらかといえば西軍を支援し、淀殿は妹で秀忠夫人の江に配慮したか煮え切らなかった。戦いのあと家康は東日本を確保することを最優先に大名を再配置した。そして、家康が長生きしなかったら、秀頼が成人して関白になって、秀忠が将軍で収まっただろう。ところが、家康は異常に長生きして元気だった。

二条城豊臣家の運命を決めたのは、二条城会談だ。秀頼に供奉した加藤清正は、沿道に繰り出して熱狂する京都市民のために、わざわざ御簾を上げて成長した秀頼の姿を見せ、世論の支持が圧倒的に豊臣にあることを見せつけた。しかも、秀頼は有能かどうかはともかくカリスマ性があった。

清正はこれで安心と思ったが、家康は秀頼を滅ぼすべしと踏ん切りを付けた。しかも、加藤清正など多くの豊臣恩顧の武将が相次いで死んだ。家康は融和のための良い知恵が出ないように、北政所の秘書である孝蔵主をスカウトして駿府に移すとか、秀忠の知恵袋である大久保忠隣を排除した。

千姫の輿入れのときも、お江は伏見まで見送ったが大坂にはついて行けなかったので、浅井三姉妹が一緒に会ったのは秀吉の死の直後に江が江戸に移ったのが最後だった。秀頼と千姫のあいだに子があったら、いろいろな妥協策の余地ができただろうができなかった。

そして、方広寺の鐘銘文が徳川家を呪うものであると難癖をつけて、強引に開戦した。福島正則は、「三年遅く、三年早い」と地団駄を踏んだが、豊臣恩顧の諸将が死に、家康が元気なうちという一瞬だけしかない絶妙のタミングだった。

このとき、大坂方は負けさえしなければ展望を開ける立場にあったから、籠城戦を選んだ。大坂方は善戦して、講和に持ち込めた。ところが騙されて堀を埋められてしまう。夏の陣では淀殿より秀頼が妥協を拒んだのだろう。

ちなみに、三法師丸こと織田秀信も、関ヶ原の戦いのとき籠城を勧める老臣の意見を退けて出撃してあっけなく負けている。幼少の時から、父や祖父の英雄物語を聞かされて育った若者は得てしてそういうものだ。

八幡 和郎
PHP研究所
2015-08-05

 

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学大学院教授

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