「不平等」は本当に“公平”の結果か

米国と英国の2重国籍者、2015年のノーベル経済学賞を受けたアンガス・ディ―トン(Angus Deaton)氏は独週刊誌シュピーゲル最新号(1月14日号)とのインタビューの中で、「資本主義は人類に大きな貢献をもたらしたことは間違いない。貧困者が減少し、乳児死亡率は急減した。その意味で資本主義の歴史はサクセス・ストーリーだ」と評価する一方で、「世界的に見られる不平等は近代の経済成長の結果だ」と指摘し、「貧富の格差」の克服という課題が依然、残されていると指摘している。

世界の資産の半分を一桁のスーパー富豪家が所有しているという記事が報じられたばかりだが、どうみても健全な発展とは言えない。米ウォール街の反政府運動、そのスローガン「われわれは99%」は「貧富の格差」への警告だった。

資本主義社会では誰でもリッチになれるチャンスはあるが、実際にその機会を掴んだ人と掴み切れなかった人が出てくる。大学受験シーズンを迎えたが、誰でも東京大学に入学できるわけではない。怠慢で遊んでいた学生が東大に入学を希望したとしても難しいだろう。その意味で、現実の「不平等」は公平さが機能している結果といえるわけだ。

米国は自由を至高の価値と見なし、汗を流し、夢を追いかける国民には優しい社会だが、啓蒙思想とフランス革命のメッカ、欧州社会では自由の行使はあくまでも平等と友愛との調和が前提となる。欧州では、平等と友愛が伴わない自由に対しては一定の制限が伴うことが多い。

米国式資本主義がワイルド資本主義と呼ばれるのは自由を最重要視する一方、平等と友愛に対して非情な面があるからだ。米国社会では「不平等こそ公平だ」という考えが根底にある。努力し、多くの汗をかいて働いた者の富がそうではない者と平等であることは考えられない。だから、社会の不平等こそ公平と正義の証といえるわけだ。

オバマ・ケア(国民皆保険制度)が歓迎されないのは経済的理由だけではないだろう。「不平等こそ公平だ」という考えが強い社会で全ての国民が公平に健康保険を享受すべきだというオバマ前大統領の理念は理解されにくいのだ。

共産主義思想が欧州のキリスト教社会を温床として誕生したのは決して偶然ではなかった。共産主義社会は労働者を資本家の搾取から解放した公平な社会の建設を叫んだが、実際は、国民の自由は奪われ、平等をアピールするゆえに公平さも失われていった。

ところで、米国家情報会議(NIC)はポピュリズムを「エリート、主流派の政治、地位が確立された機関に対する疑念と敵意 」と定義している。換言すれば、エスタブリッシュメントへの疑念と敵意だ。権利を享受し、社会的地位を保有している人、機関への疑念であり、それが高まると敵意となる。

現在の「貧富の格差」は共産主義思想が生まれた時代様相に一見似ている。資本家への疑惑、敵意が共産主義を生み出したように、既成社会の支配者、エスタブリュシュメントへの疑惑、敵意がポピュリズムの台頭をもたらしているからだ。両者とも疑念と敵意という人間の情念を栄養としながら成長してきたわけだ。

両者の相違は、共産主義に対しては思想的に対抗できるが、ポピュリズムの場合、思想的には対抗できない点だ。それだけに、ポピュリズムとの戦いは共産主義との戦い以上に苦戦が予想されるわけだ。

なぜならば、「不平等は公平の証だ」と、誰が声を大にして叫ぶことができるだろうか。われわれが主張できるのはせいぜい「機会の平等」だけではないか。そして、ポピュリストがそれだけで満足することは絶対にないのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年1月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。