音楽著作権の重層性

若井 朝彦

市井の音楽教室での、練習楽曲の使用に著作権料が発生するか否か。徴収側(JASRAC)と、それを否定する教室側(その先頭に立つのはヤマハ音楽振興会)との争いも、いよいよ本番を迎えた。6月7日配信の時事通信のネットニュースによると

日本音楽著作権協会(JASRAC)は7日、東京都内で記者会見を開き、ピアノなどの音楽教室での演奏について、来年1月から著作権料の徴収を始めると正式に発表した。 同日、文化庁に使用料規定を届け出た。

ということだ。これに先んずる形でヤマハ側はJASRACに対し、支払義務不存在の確認訴訟を予告している。どちらが勝つにしても、決着は法廷を経て、ということになる。

実際のところ、教室では著作物である楽曲の楽譜を使用し、金銭の授受が発生している。教室が営利事業として運営されているという面からすれば、法廷においてはJASRACに分があるだろう。そうわたしは思う。

ではJASRACがあきらかに正当なのかといえば、それは単純にそうではない。音楽著作権、音楽で発生する権利、またその扱いの慣習というものは、一筋縄で括れるというものではないからだ。

まず音楽著作権の代表的なものである作曲家による著作権というものがある。曲から発生する著作権である。しかしそれだけでは音楽にはならない。実際に音にする演奏家が必要である。しかし演奏家の権利は、著作権より一段低いものとして見做されており、著作隣接権として扱われている。(とはいえクラシック音楽の著作権で目立った稼ぎというものは、おおよそこの部分によるものだ。)

著作隣接権の保護は、作曲による著作権よりももはるかに短い。日本の場合、作曲の著作権は作者の没後50年にも及ぶが(ヨーロッパは70年標準)、演奏の場合は「発表後」50年である。没後30年に満たないヘルベルト フォン カラヤンの場合も、そのレコード録音の枢要なものは、かなりの権利が消滅している。

したがって長命な指揮者の場合は存命中に一部の権利が切れはじめる。たとえば小澤征爾の場合も、シカゴ響との60年代レコーディングなどは、もうあと数年で、日本のだれもが(商業利用をも含めて)利用できるようになる。(まったくはなしは今日の主題から外れるが、こういったことは、加寿の祝いのようにとらえてもいいのではないだろうか。)

また逆に、作曲の著作権が切れても、楽譜を厳重に管理し、演奏のたびに貸し出して使用料を確保するという手段もある。この楽譜というものは扱いがむずかしいところがあり、17世紀の作曲家の古い作品の「校訂」の作業(編曲ではない)に著作権が発生してしまったことがある。
(これについては以下を参照ください。この構図は、JASRACとヤマハの対立の構図に似ていなくもない。)

wikipediaから「ハイペリオン・2004年の訴訟」の項目

そして今回問題となった練習での楽曲の扱いである。これだって単純ではない。「使用料は必要ない。使用する楽譜の購入で充分」という解釈もあることはある。じつはわたしの意見もこれに近い。ただしこれは法の解釈ではなくて、そうあるのが音楽が栄えるためには自然であろう、という見地からである。

練習というものは、そもそも演奏ではないと思う。頻繁に止めては、同じ個所を繰りかえすのが普通だからである。なにかの機会に、オーケストラの練習に立ち会えることがあるが、それが「通し演奏」を前提とした練習(ゲネプロ)であっても、指揮者は必要を感じて演奏を止めることがある。

音楽はなにより「ひとつづき」のものだ。途中で途切れたものは楽曲ではない。感情が醒めるからである。「止まるかも知れない」と思って聞く音楽は音楽演奏の本来の姿ではない。企業会計では、仕掛品も仕分けの上で資産に繰り入れるが、練習というものは「演奏という資産」には、ほとんど含められないとわたしは考える。

オーケストラの場合は練習時間の配分が難しい。「この指揮者は何を考えているのか」ということがその配分から判ることもある。またピアニストが練習でどこを繰りかえして念を押すのか。ヴァイオリニストがどんな調律をしているのか。こういったことは知的には面白い。だが練習は本来の音楽演奏ではない。法廷ではこのような解釈はまず出てこないだろうが、練習と演奏の境界については当然俎上に載せられることだろう。今回の件ではこれは避けられない。

ところで時事通信の記事は

JASRAC会長で作詞家のいではく氏(75)は「クリエイターに対する敬意を持ってもらいたい」と説明。理事で作曲家の渡辺俊幸氏(62)は「著作権の大切さを理解してほしい。訴訟は避け、話し合いで解決したい」と語った。

と結んでいる。これは記者がまとめた短信であるから、そのままストレートには受けとめられない。関係者はこの他にもいっぱいしゃべっているはずだ。しかしこの通りだとすると、これはすこし妙だ。

ある楽曲が練習に使用されているとすると、それはその時点ですでに敬意が払われているといってよい。プライドはプライド、お金はお金として、率直に「われわれの作品を勝手に使用して稼ぐな! タダ働きさせるつもりか!」と言ってもらった方が判りやすいというものだ。またJASRACは、むしろ訴訟になることを歓迎すべきではないだろうか。たとえ和解になったとしても、その過程はほぼ公になるのだから。

時間はかかるだろうが、今後の道筋が付くことからすれば、今回の紛争は悪いことばかりではない。ひとからげ一律の徴収ではなくて、練習用に価格設定された楽譜の厳格な購入という結着でもいいはずである。とくに楽譜の電子化が進むであろうことを考えれば(楽譜はなかなか紙から離れられないけれども)、いずれはそういった管理も容易になる。

せっかくの機会、ぜひ将来を織り込んだ解決を望みたいものである。

2017/06/08 若井 朝彦
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