「光秀謀反は室町幕府再興のため」というお粗末報道

2017年09月13日 06:00

本能寺の変を巡る“新発見”が話題になったが…(NHKニュースより:編集部)

「本能寺の変は室町幕府再興が目的か 光秀直筆の書状を確認」というニュースをNHKが流し、ほかのメディアも追随しているが、なんとも馬鹿馬鹿しい話で、歴史など文化報道のお粗末さを露呈するとんだ事態だ。

本能寺の変、目的は室町幕府の再興だった? 明智光秀直筆の書状から分析 – ねとらぼ 

明智光秀が織田信長に謀反を起こした「本能寺の変」の動機をはかるうえで有力な史料を、三重大学の藤田達生教授が発見しました。教授は光秀のクーデターに、「将軍足利義昭を奉じて室町幕府を再興する」という明確な政権構想があったと結論付けています。

藤田教授は5月から、美濃加茂市民ミュージアム(岐阜県)所蔵の「6月12日付土橋(つちはし)重治宛光秀書状」の調査を実施。内容や筆跡などから、明智光秀が天正10年6月12日(1582年、本能寺の変から10日後)に土橋重治へ宛てた手紙の原本と結論付けました。同史料は手書きの写しこそ東京大学に存在していましたが、写す過程で内容が変化した可能性のない、原史料の発見は初のこと。

本当に幕府再興が目的だったのか?

まず、この手紙は写しがすでに知られており新発見でも何でもなく、内容は既知の事実だし、その内容に誰かが疑わしいと言っていたというものですらない。だから、そもそもニュース価値などない。それを、鑑定を頼まれた学者が、本物らしいと自分は考えると(といっても第三者が認めたわけでないが)、発表しただけのことで、なんでこんな話がニュースになるのか分からない。 

さらに、これをもって、「目的が幕府再興だった」と何故なるのかも分からない。光秀が本能寺の変を起こして少し時間が経過したあとの山崎の戦いの前夜に、足利義昭を京都に迎えたい、と言っているだけである。

最初からそれを意図していたということをこの手紙が照明しているのではない。山崎の戦いのころの情勢を踏まえて、紀州の土豪の手紙に答える形で京都に迎えるつもりだといっているだけで、最初からそのつもりだったとか、それが目的だったとかいうことにはならない。 

さらに、義昭を京都に迎えることが、幕府再興になるわけではない。そういう意味で言えば、豊臣秀吉は、現実に義昭を大坂、ついで京都に迎えている。そして「公方様(つまり将軍)」として遇しているが、関白太政大臣豊臣秀吉の目下の存在でしかない。聚楽第の席次などを見ると、秀吉が客を迎えるときに、摂関家、法親王などと並んで脇に座っているだけだ。 

光秀が義昭を京都に迎えても、元将軍的に扱っただけで、現実の権力を握り幕府を組織して君臨する将軍にしただろうと想像する根拠はなにもない。

こんなことは、特段に専門知識がなくとも、藤田達生氏が示した材料からそういう結論に結びつかないのは、論理的にものを考える能力があればありえないことは分かるはずだ。

どうも歴史学者は、「新発見」をしたと誇大宣伝したがるし、ジャーナリストは派手な記事になるから、それを無批判に報道することの繰り返しだ。その結果、古代史などでは「世紀の発見」が毎年のように報道されるし、「定説」が10年ももたない。

ほかの学術分野で10年にいちど定説が変化するものがあるだろうかといえばないし10年もたたずにひっくり返る可能性があるものは、定説などと呼ぶべきでない。

古代史など定説をひっくり返して新しい説を提示しないと業績にならないので、現役の学者の新説がすぐに定説になってしまって教科書も書き換えられる不愉快な状況だ。もちろん、「日本書紀」や「古事記」などに書いているのは、嘘だと言わないと左翼支配の学会では歓迎されない。

真書太閤記 本能寺焼討之図(Wikipedia:編集部)

クーデターの動機は「予定外」?八幡説を披露

ところで、本能寺の変の本当の動機は何か。私は以下のように考えている。

明智光秀が信長に反旗を翻したく思ったのは、年を取ってきたせいもあるが、活躍の場が徐々に減ってきてじり貧になっていたのと、うっかりすると失脚の可能性もありえたからだ。

四国について光秀は親長曽我部で動き、家老の斉藤利三の姉妹が長曽我部家に嫁いでいたりしたのだが、信長が三好家に乗り換えたので、困ったことになっていたのは、ひとつの理由ではあっただろうが、それだけで、謀反したというのは無理がある。

謀反に踏み切ったのは「予定外」で、信長と嫡子の信忠が小兵力だけ連れて京都に滞在するという信じがたい隙を見せたからだ。信忠はまずまず出来の良い後継者だったから、信長だけを殺しても信忠が健在な限りは返り討ちにあるのが必定だったのが、上手の手から水が漏れたのである。

それを見て光秀は出来心を起こしたのであるし、それなりの大名も光秀についている。細川幽斎・忠興にしても光秀にはついてないが、秀吉の方に着いたわけではないし、筒井順慶も洞ヶ峠で様子見しただけだ。

予想外の事態は、羽柴秀吉が中国から意外に早く帰ってきたので、日和見組がなびかなかっただけだ。

足利義昭は、京都に帰りたいからあちこちに協力要請しているので、共謀など不要である。ただ、どう見ても、事前に決起を伝えるとか、あるいは、速やかに使者を送れるように準備していたとは到底思えない。もしそうなら、もう少しうまく協力関係が出来たはずだ。

娘婿で大阪で神戸信孝や丹羽長秀と布陣していた織田信澄との連携は悪く、信澄は合流前に長秀らによって殺されてしまった。事前に準備していたら、ただちに信澄に使者を送って合流を呼びかけたはずだ。

戦国大名 県別国盗り物語 (PHP文庫)
八幡 和郎
PHP研究所
2015-08-05
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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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