島津斉彬ができなくて久光だからこそできた革命

2018年02月03日 15:00

NHK大河ドラマ「西郷どん」の史実無視ぶりはいくら何でも酷すぎる。「井伊直虎」は史実が分からないのだから仕方ないが、西郷や幕末の薩摩に謎なんぞほとんどないのだ。特に、斉彬と久光兄弟については、久光を凡庸な人物として描きたいらしいが、とんでもないことだ。まして、久光は今上陛下にとって高祖父に当たる人。またもやNHKが大好きな皇室イメージダウンの陰謀か?

現在の陛下はさまざまなDNAを受け継がれているが、そのなかで、島津久光に通じるものはかなり多いと思っている。久光は斉彬に比べてスケールが小さい凡人だったといわれるが、そんなことはない。八方美人の斉彬にない久光の決断力で歴史は動いたともいえるのだ。

戦前の華族制度において旧大名で公爵だったのは、徳川、島津、毛利の三氏である。このうち毛利は一家だけだが、徳川は三家、島津は二家がこの最高の爵位を得ている。徳川は江戸開城のあと第16代として篤姫に育てられた家達に始まる宗家、明治35年(1902年)になって慶喜が立てた別家、それに昭和4年(1929年)になって大日本史編纂の功が認められた水戸家だ。

一方、島津は久光の実子である忠義が斉彬の養子として宗家を次いだので、久光は大名や宗家の当主だったことはないのだが、別に公爵家(玉里家)を立てることを認められて七男の島津忠済に継がせた。したがって、現在の御本家の当主である修久氏にとっては、血統としては久光の子孫だが、先祖代々には数えていないとのことである。

そして、現代の鹿児島においては、大久保が西郷に比べて不人気であるように、久光は斉彬のようには崇敬されていない現実がある。それも当然なのは、西南戦争のときに久光は局外中立のような立場をとったということであるし、もうひとつには、完全無欠型の英主で包容力があった斉彬に比べて、久光は分からず屋の難しいところがある人物だということもある。
しかし、私自身は、この久光の尖ったところこそが、倒幕を実現したのでないかと思うのだ。

斉彬は斉興正室の子で母は鳥取藩池田家から来ていたが、輿入れのときに漢籍を多く持ち込んで薩摩藩邸の人々を驚かせたという。この母による教育で当時の大名としてはかなり高いレベルの和漢の教養だけでなく蘭学にも興味を持ち、絵描きに和歌、茶道、囲碁、将棋、釣りにガーデニング(朝顔作り)と趣味も豊富、大柄で怪力を誇り、武芸にも優れていたという。

松平春嶽は、「外見は英雄らしくはないが、肝っ玉が大きく、才智より道徳を重んじ、学問もあった」とし、勝海舟は「性質温和で容貌が整い、親しみやすいが犯しがたい威厳もあった。度量遠大で国を背負う気概もあり、維新に多くの人材を薩摩が出せたのもその教化によるものだ」としている。

江戸城でも20歳くらいのころに「小大名ならば老中として天下の国政をまかせられるのに」と評判だったという。つまり、老中は譜代の小大名でなければならず、外様でも小大名なら便宜的に譜代扱いもありえなくもないのだが、薩摩藩の世子ではどうしようもないということだった。

しかし、御曹司なりの弱さもあって、不仲でなかなか隠居しなかった父の斉興は、「斉彬は勇気がなく、おしゃべりで、評判を気にしすぎる」と次男の久光に書き送っているが、要するに、「貴公子だけに幕府などに粘り腰で交渉する根性と懐の深さがなく、いい子ぶりしすぎだ」、「いろいろ根回しを周到にやりすぎ、策を弄し、藩外に恥をさらすことが多い」というような意味であって、斉彬の良さというものを裏からみれば、そういう指摘を斉興がしたのもそれなりにもっともなのである。

島津久光像(Wikipediaより:編集部)

久光は斉彬より8歳年少である。母親は江戸の町人の娘であるお由羅だが、鹿児島で生まれそこで育った。少年時代から聡明といわれ、蘭学などにも興味を示す斉彬と違って伝統的な国学・漢学に傾倒した。

父の斉興は久光の方を評価して跡を継がせたいと思い、財政再建に取り組む家老・調所広郷が斉彬は派手好きで重豪に似ていると同調してお家騒動となり、斉彬派が大量処分された「お由羅騒動」も起きた。斉彬は、親戚の諸大名や老中・阿部正弘らに助けられ、将軍からは斉興に茶器の赤衣肩衝を与えて隠居を促し、42歳のときに藩主となったが、これは当時としては隠居してもよいくらいの年齢だった。

こうした経緯はあったにもかかわらず、斉彬は久光の才能を高く買い、重臣として相談もし、重要な仕事を任せている。斉彬の死の少し前、勝海舟が咸臨丸で指宿を訪れたが、このとき斉彬は久光を紹介し、「若い頃から学問を好み、その見聞と記憶力の強さ、志操方正厳格なところも自分に勝っている」といったというが、人を見る目がある斉彬らしい人物評である。

しかし、斉彬が死んだときには、すでに久光も42歳だったので、久光の息子である忠義が藩主になり、隠居の斉興が復権して実権を振るったので出番はあまりなかった。このとき、斉彬側近が弾圧され、西郷隆盛が月照と自殺未遂事件を起こしたりしたことで、久光を非難する人がいるが、これは、斉興のイニシアティブによるもので濡れ衣だ。

しかし、翌年には斉興も死去したので、久光の院政が始まり、「国父」と呼ばれるようになった。側近の小松帯刀をパイプ役として、大久保利通ら斉彬派中核だった精忠組の一部を取り込むことに成功し、「じごろ(田舎者)」と言ってはばからなかった西郷とは微妙な関係が続いたものの、藩内の掌握に成功した。

そして、文久2(1862)年になって、久光は斉彬の意志を継いで公武合体を進めると称して上京する。このとき、西郷隆盛は中央政界に経験も知己もない久光がそんなことをするのは無理だと失礼にも面前で言って反対した。

ところが、西郷の予言は外れて、この久光の行動は大成功するのである。まず、伏見の寺田屋に集まった薩摩藩内勤王過激派を粛正する思い切った措置をとったことで、過激派嫌いの孝明天皇の信頼を獲得し、朝廷から藩兵の京洛駐屯を認めさせ、一橋慶喜の将軍後見職就任などを求めた勅書を獲得した。島津久光は勅使大原重徳を連れ千名の兵力とともに江戸に下り、慶喜の将軍後見職、松平慶永の政治総裁職就任を実現させた。

ここに、井伊大老によって試みられた、幕府を諸大名の意向などに左右されない近代的な日本政府に生まれ返らせようと言う試みは最終的に挫折する。不思議なことに歴史上の大事件として扱われていないのだが、まさしくクーデターそのものだ。

島津久光の一行は江戸からの帰りに横浜で英国民間人とのトラブルから、生麦事件を起こす。それが、翌年には、薩英戦争に発展して鹿児島の町に大きな損害を出すが、イギリスの強さを見たことで藩内保守派の転向を促したし、相手の艦長を戦死させるなどそこそこ善戦したことから、結果として英国から一目置かれることにもなった。

斉彬と久光を比べると、知性においては甲乙つけがたいものがあるが、斉彬のカリスマ性は久光にはない。だが、久光はそれを厳しい統率力とバランス感覚の良さでカバーした。

藩外要人との交流や実際の外交経験はないが、兄である斉彬のしてきたことを冷静に観察し、意見も言ってきたわけであり、知識としては不足していなかった。

斉彬の側近だった西郷からあれこれいわれても、「兄貴のことは西郷などより俺が一番よく知っている」という気分だっただろう。それだからこそ、中央政界に乗り出すについても、十分に指導者としての自分に自信をもっていたし、太っ腹ではないが、根性は座っていた。

その久光が、結局のところ、廃藩置県まで薩摩を率いるのであり、維新の功労者としては西郷や大久保にまさる功績があった。

ただ、王政復古後は西郷や大久保が独自の立場で朝臣になって久光の意向に反して動くようになった。新政府は久光に最大限の敬意を払い、左大臣にまでしたが、久光は風俗の西洋化に激しく抵抗して生涯髷を切らず、帯刀・和装をやめず、ほとんど鹿児島に引っ込んでしまった。

西南戦争にあっては、事実上、中立のような立場をとったが、政府軍に御殿などを焼かれて憤激ただならぬものがあった。

ただし、久光の考え方は無駄になったのではない。明治も20年代になると、文明開化も一段落し、日本文化や伝統的な道徳にも価値を見出そうという風潮となり、明治23年の教育勅語の発布はその象徴だが、これらの動きは、維新直後から久光の主張してきた文脈に沿うものだったからである。

消えた江戸300藩の謎 明治維新まで残れなかった「ふるさとの城下町」 (イースト新書Q)
八幡和郎
イースト・プレス
2018-01-11
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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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