硫黄島で死んだ祖父を終戦日に想う

駒崎 弘樹

終戦記念日。

毎年思うのは、祖父のことだ。

僕の祖父の高橋金蔵は埼玉県の豪奢な造り酒屋の三男だった。20代前半で戦地に赴き、硫黄島でその他2万人の方々と同様の最期を遂げた。

金蔵からの手紙が、実家に何枚か残っている。その手紙のほとんどに、まだ小さな息子(後の僕の父親)を思いやる言葉が並んでいた。


「章喜(息子)のことが心配でならない」
「章喜(息子)に何か間違いでも起きたかと」

自分が戦地にいて、いつ死ぬか分からないのに、子どものことを心配する祖父の気持ち。

僕も父親になって、その気持ちが痛いほど分かるようになった。

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なぜ祖父は死なねばならなかったのか。祖父を殺したものは、何だったのか。

僕が歴史オタクになったきっかけの1つだった。

あまりにも非合理な意思決定の末の開戦。

国家ぐるみの認知バイアスと、データに基づかない精神論、多様な意見の存在が許されない言論環境、商業メディアの暴走等、いくつもの要因が複雑に絡まり合っていたことが、大学時代に組織論や戦略論のゼミで学んで分かったことだった。

さらに愕然としたのは、この国家の集団自殺へと向かわせた非戦略性は、あれから70年が経っても、いまだに我々の社会に巣食っていることだった。

少子高齢化で社会が衰退傾向になることは、30年以上前に分かっていたにも関わらず、いまだに子どもや子育てへの投資は先進国の中でも低い水準のまま。

財政制約があるにも関わらず、省庁ごとの個別最適性の追求に資源投下され、さらには政策意思決定はエビデンスに基づいていないことが大半。

社会が20年近くに渡って投資してきた希少な人材であるのに、数年で食いつぶすブラック企業を跋扈させる企業環境。

我々は祖父らを死に追いやった構造の超克という宿題を、いまだに片付けていないのでは無いか。

そしてそれはおそらく魔女を探して解決する類のものではない。我々自身がシステムの一部として組み込まれ、加担し、そして安定しているからこそ、変え難い。

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しかしヒントは、ある。

ジャレド・ダイアモンドは「文明崩壊」の中で、失われた文明と持ちこたえた文明の差を分析している。

多くの文明はそれが依って立つ前提(例えば自然環境)を、森林の伐採や乱開発等によって壊してしまい、システムとして維持できなくなるというパターンを辿る。

これは乱開発によって得られる利益の最大化という短期的合理性によって、長期的合理性が駆逐されたことによって起きるプロセスで、様々な文明に共通して起きる。

一方で、短期的合理性を抑制し、長期的合理性にベットし、資源管理に動く(動ける)文明も存在した。

そうした文明は相対的に命脈を保てる。

その事例の1つが、我が国の江戸幕府だった。

深刻な森林破壊による河川氾濫や干ばつに悩まされた幕府や藩がリーダーシップを取り、「木一本、首ひとつ」と言われるくらい厳しい森林保護、植樹造林を行っていったことで、列島の森林資源は回復していった。

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短期的に経済的に得はしないが、長期的に社会に恩恵をもたらす、一見「馬鹿げた」意思決定を、「現実感のない」プロジェクトを、「偽善的な」人々を如何にエンパワーできるか。

祖父を想う度に、祖父からもらった宿題について考える。

この宿題は、夏休みだけでなく、自らの一生をかけて仕上げなければいけないのであろうが。


編集部より:この記事は、認定NPO法人フローレンス代表理事、駒崎弘樹氏のブログ 2018年8月15日の投稿を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は駒崎弘樹BLOGをご覧ください。