「日本は対等の国」と清に認めさせた副島種臣(特別寄稿)

八幡 和郎

「大清帝国の運命は」…。西太后が『蒼穹の昴』(浅田次郎原作)などの歴史ドラマで国の行く末を心配してつぶやくとなんともいえない威厳を感じた。しかし、これは、大日本帝国をまねて日清戦争のあとになって使い始めたもののようだ。そもそも、中国語には帝国とか王国とかいう表現はない。

百済王国とかいうような表現もあったはずない。帝国はエンパイア、王国はキングダムを訳した和製漢語だ。清国はアロー戦争(1856~60年)の結果、外国公使の北京駐在をのむことになった。しかし、清国は皇帝への三跪九叩頭を要求した。もっとも、とりあえずは、西太后の子である同治帝が幼少なのを口実に延長戦になっていたが、皇帝が成人したので問題が再燃していた。

副島種臣(1828~1905)※写真はデジタル大辞泉より引用:編集部

この問題を総理衙門や李鴻章と交渉して解決したのが、日本の外務卿にして特命全権大使として日清修好条規(調印は1871年)の批准文書交換のために北京に乗り込んだ佐賀藩出身の副島種臣である(1873年)。

副島は皇帝への謁見を三跪九叩頭などせずにすることを要求し、当時の実力者ナンバーワンだった李鴻章もその主張に理解を示した。さらに、副島は欧米の外交団も巻き込んだ粘り強い交渉を一か月半もして、この年の6月29日に欧米の外交団とともに皇帝に謁見した。外国との国交は朝貢のみ受け付けるという中華帝国の歴史が終わった瞬間だった。

さらに、副島は、自分の身分が大使であることを理由に、各国駐在公使より高いランクを獲得し、英仏露蘭米の公使よりワンランク上の扱いを受けた。東洋の伝統的教養と西洋的な国際法の世界と両方に通じていてこその日本外交の快挙となったのである。

日本と清との外交交渉は、その2年前に始まったのだが、日本にとっては、その前に朝鮮との外交交渉の紛糾があった。
徳川幕府は、対馬藩を通して朝鮮と変則的な国交を持っていた。形の上では、朝鮮から日本への朝貢使節だが、少し曖昧な形にした朝鮮通信使を朝鮮王国は将軍の代替わりごとに日本に派遣するというわけのわからない形だった。

明治維新になって新政府は、1868(明治元)年12月に、新政権樹立の通告と「条約に基礎づけられた近代的な国際関係」を樹立することを求める国書を携えた使者を朝鮮に送った。

ところが、実質的に摂政のような地位にあった大院君は日本が西洋化を進めていることを非難した。さらに、中国の皇帝のみが使える「皇」とか「勅」の文字が国書に使われているのが許せないとして、国書の受け取りを拒否したのである。親書の受け取り拒否というのは、半島国家の風変わりな得意技である。

あまりのばかばかしさに怒った新政府は、それなら朝鮮が従属している清国との外交を先に樹立した方が良い判断し、清国との条約締結交渉を外務権大丞柳原前光を派遣して開始した(1870年)。清国では欧米諸国とは近代的な国交を結ばざるを得ないが、朝鮮・ベトナム・琉球との関係は従来のまま、それ以外とはとくに国交は不要で、貿易は取り決めがなくてもいいというのが方針だった。

また、地方官レベルでは日本はもともと朝貢していた国だから欧米と一緒に扱う必要なしという認識を上申した者もいた。
しかし、漢人官僚で歴史にも通じた曾国藩や李鴻章はそういう愚かな考えには与さなかった。ちなみに、曾国藩というのは、太平天国の乱の鎮圧に活躍し、現代中国でも尊敬されている、近代中国最高の政治家である。

曾国藩の上申書は、「鎖国していた日本が西洋の国と国交をもち、我が国ともそうしたいと望むのは他意があるとは思えないし、断れば、西洋諸国を通じて圧力をかけてくるだろう。日本にはフビライが大軍を送ったがほとんど全滅させられたし、倭寇に沿岸地方を荒らされたがなすすべもなかった。もともと中国を隣邦と呼び畏まる様子もないのであって、朝鮮・琉球・ベトナムとは一緒にできない。また、西洋の国はこちらに来て商売するが、中国人が向こうにいくことはあまりない。しかし、日本には中国人も商売に行くだろうから領事についての原則は決めておいた方が良い」と上申した。

この良識的な意見がとおり、「相互に外交使節を常駐させ、領事裁判権を相互に承認する(治外法権を両方持つ)」という対等の日清修好条規が結ばれた(1871年)。その批准書交換のときに、上記の皇帝謁見が行われたのである。

こうした経緯は、『中国と日本がわかる最強の中国史 』(扶桑社新書)でも詳しく紹介してある。

中国も朝鮮と違って日本は中国と台頭の国という歴史認識が日本と中国の近代的外交関係の最初にあったということを理解することは、東アジアの近代史理解においての基本であるが、媚中史観の人はあえてこれを無視したりするがとても大事な点だ。

中国と日本がわかる最強の中国史 (扶桑社新書)
八幡 和郎
扶桑社
2018-09-04