「新潮45」はどこで間違ったのか?歴史ある論壇雑誌の休刊を受けて

音喜多 駿

こんにちは、都議会議員(北区選出)のおときた駿です。

9月25日、急きょ「新潮45」の休刊と、社長および編集担当役員の減俸処分が発表されました。

「新潮45」休刊、社長処分
https://this.kiji.is/417247721950938209


新潮社HPより引用)

私も「新潮45」には何度か寄稿し、真山仁さんとの対談記事を掲載していただいたこともありました。一緒に仕事をした編集者の方は熱心で能力も高い方で、休刊報道の後も丁寧に個別連絡をいただきました。

一連のLGBTに関する論文がどうしようもないものだったとはいえ、言論の場が一つ消える結果になってしまったことは率直に残念です。

 

多くの方が指摘しているように、「休刊」するのではなく自省的な特集を組むなど、やり方は他にもあったと思うのですが、

 

もはやここまで「炎上」が広がってしまった以上やむを得ないという、「損切り」的な判断だったのではないでしょうか。

情報化社会では、ひとたび「炎上」しその初動対応を誤ると、取り返しのつかない結果となることが増えました。

新潮45の一連の対応を振り返ると、何度か「引き返す」「立ち止まる」機会があっただけに、なぜそうしなかったのか・できなかったのかと思えてなりません。

まずは、きっかけとなった「杉田論文」発表後。この炎上でも出版社・編集部に批判が寄せられていたとはいえ、まだ主たる批判の対象は執筆者である杉田水脈議員に向けられていました。

この段階で何らかの公的見解を発表し、次号で反省的な記事や杉田論文に反論する有識者の論文を掲載するなどしていれば、休刊にまで追い込まれることはなかったはずです。

ところが、新潮45は何を思ったかここで「逆張り」し、杉田論文を援護する特集を掲載します。ここに登場したのが悪名高き「小川論文」でした。

無知と誤解と偏見に満ちた劣悪なこの記事は、「杉田論文」をスルーしていた層の嫌悪感すらも呼び起こし、雑誌そのものや出版社に対する批判が噴出することになります。

さらに極めつけは、9月21日に社長名で発表された新潮社の声明。

「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました」

との文章はあったものの、それが具体的に何を指すのかについての言及や、謝罪の文言が一切なかったことで、文字通り「火に油を注ぐ」結果を招きます。

燃え上がる批判の炎の前に、もはや新潮社は為す術もなく、地道に時間をかけて鎮火するより、「休刊(出版社の慣例で言えば事実上の廃刊)」という荒療治によって事態を治めることを選んだようです。

このように振り返ると、新潮45および新潮社の危機管理対応は典型的かつ致命的な失敗例といえるでしょう。

初期対応がすべてとも言える情報化社会の危機管理対応で、どうして初手を誤ってしまったのか。

繰り返しになりますが、「杉田論文」のあとにすぐ社長声明あるいは編集部声明を出し、次号で自省的な特集を組んでいれば、今回の事態は確実に防ぐことができたはずです。

今回、新潮社や新潮45に対して不買運動や抗議デモが起こったことに対して、「言論弾圧だ」「言論の自由の侵害につながる恐れがある」という声もあります。

個人的には「廃刊せよ!」という主張は行き過ぎだと思いますし、言論の死につながりかねないと危惧しています。

一方で、炎上中にあれほど愚劣な「小川論文」を重ねてきた編集部の不見識な対応を見れば、不買運動や抗議デモが巻き起こることはやむを得ないとも思います。

「廃刊せよ!」という主張をすることもまた自由です(言論人がするのはいかがなものかと思うけれども)。

そのような主張がここまで大きくなる事態を招き、またその声に屈する形で自省特集ではなく「休刊」を選んでしまった出版社の対応がただただ残念です。

新潮45は休刊となりましたが、その編集部を始めとするスタッフは新潮社に残るはずですし、社として情報発信をする媒体は無数にあります。

この休刊だけで幕引きとするのではなく、今回の一連の流れをどのように考えて今後に活かすのか、関係者から建設的な発信があることを願ってやみません。

それでは、また明日。


編集部より:この記事は東京都議会議員、音喜多駿氏(北区選出、かがやけ Tokyo)のブログ2018年9月25日の記事より転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はおときた駿ブログをご覧ください。