「反日国家」大韓民国を建国した李承晩の悪行

2019年01月03日 06:00

正月の休みは、1月と2月に出す2冊の本の仕上げをしている。1月は、『捏造だらけの韓国史 – 徴用工、慰安婦問題だけじゃない 』(ワニブックス)だ。

韓国史についての3冊目の本だが、これまでの2冊が通史だったのに対して、徴用工・慰安婦・レーダー照射など現在の問題に重点において、その参考として歴史を語るという構成になっている。

李承晩(Wikipedia:編集部)

そのなかで、あらためて、思うのは大韓民国初代大統領李承晩の酷さだ。1945年8月、朝鮮半島では日本の終戦は唐突にやってきた。私は日本の統治下にあった朝鮮を混乱なく独立させるためには、まずはそのままの統治体制を維持して、何年後かの独立を目指すべきだったと思う。

しかし、ヤルタ会談での密約に従ってソ連が参戦したために、朝鮮半島は北緯38度線を境界にソ連軍とアメリカ軍がそれぞれの軍政下に置いてしまった、

アメリカは先発隊を朝鮮総督府に送り、とりあえず現状維持を支持した上で9月8日に上陸した。38度線以北ではソ連が軍政を宣布し、準備万端だったソ連は行政権を金日成率いる人民委員会に与えて民生府を設置し、金日成を通してソ連の影響力を行使することとなった。

アメリカは1948年5月10日に南だけで総選挙を行い、李承晩の韓国民主党と所属議員たちが主導権を取った。5月31日には制憲議会が開催され、国号を「大韓民国」とし、7月17日には憲法を公布。20日に李承晩を初代大統領に任命し、8月15日の記念式典で大韓民国の建国が宣言された。

李承晩が南朝鮮の指導者となれたのは、もっぱらアメリカの意向だ。もし韓国の独立が日本からの円滑な独立で生まれたとするなら、李王家の復帰や、日本政府要人になっていた人物を中心にする考えもあり得たはずだが、冷戦開始以前のアメリカにはそういう発想はなかった。

そこで目をつけたのが、世宗(ハングルを制定した名君)の兄である譲寧大君の末裔という名門出身で、日韓併合前にプリンストン大学やハーバード大学に学んで英語も上手な李承晩だった。

金浦空軍基地に到着したマッカーサーを歓迎する李承晩(Wikipedia)

李承晩は、三・一運動の1919年に上海で結成された大韓民国臨時政府設立に加わり、朝鮮独立運動を指揮したが、内輪もめで離脱。その後は、ずっとハワイに住んでいた人物だが、保守的な思想の持ち主で安心でき、クリスチャンで、日本と縁がないことも評価された。

しかし、人気がなく、それが朝鮮戦争の伏線になったのだが、休戦ののちも李承晩政権の悪政は続き民主主義を愚弄し、人権侵害もひどかった。

1951年には政権長期化のために大統領直接選挙と二院制を骨子とした改憲案を国会に提出したが、圧倒的多数で否決。しかし、翌年の7月に非常戒厳令を発令して議員たちに強制的に国会を開催させ、起立表決で可決させた。さらに、1954年の民議院選挙では買収、脅迫、不当逮捕など選挙への干渉を行った。それでも改憲のための議席数に満たなかったので、反対票を四捨五入でなく切り下げで計算して改憲成立とした。

李承晩大統領の独裁政治に対して蜂起する大韓民国市民(1960年4月19日、Wikipedia)

また、野党議員を地下室に監禁して可決した国家保安法改正で首長選挙を中止して大統領の任命制とし、死刑と終身刑に処する犯罪をの範囲を広くするなどした。

しかし、1960年3月の大統領選挙で投票所で野党候補への投票を妨害したりしたのに各地でデモが起き、李承晩もついに、アメリカ・ハワイに亡命することになった(4・19学生革命)。こんな、ひどい大統領だが、いまの韓国では国父扱いされているのは、のちの軍事政権をはさんで、“敵の敵は味方”と言うことでだろう。

日韓関係について見ても、李承晩は自らの政治権力掌握の手段として「反日」を利用し、両国関係にも韓国経済にも致命的な打撃を与た。

李承晩は上海で大韓民国臨時政府を樹立した中心人物の一人だったので、「日韓併合は無効である」という主張をし続けたが、日本としても絶対に受け入れられない話だ。

アメリカやイギリスにしても当時は日韓併合を支持していたし、何よりもアメリカのハワイ併合など、現在の国際法秩序の基礎をなす過去の多くの領土併合も無効だという主張に道を開くことになりかねないから、絶対に乗れるはずがなかった。

しかし、日本は妥協して、「もはや無効」、つまりポツダム宣言受諾に伴って日韓併合が無効になったという玉虫色の解釈で李承晩の面子を立てようとしたのだが、それでも嫌だと李承晩はこだわった。

また、日韓併合は無効という主張の延長線上で大韓民国臨時政府が日本に宣戦布告をしたので(伝達すらしてないが)、戦勝国の一員であるとも言い出したが、荒唐無稽な主張も英米が認めるところとならず、李承晩はサンフランシスコ講和会議に呼ばれなかった。

日韓交渉では、日本側代表だった久保田貫一郎大使が理路整然と李承晩の勝手な要求に反論を述べた。どうせ取れもしないものを主張することはいいのかどうかはともかく、日本側の主張は正しいものだった。しかし、聞くのも嫌だということで交渉は決裂した。

韓国による日本漁船拿捕(Wikipedia、朝日新聞社「アルバム戦後15年史」より)

また、李承晩は独断で設定した韓国と周辺国との間の海洋境界線「李承晩ライン」を引いて日本漁民を抑留したり竹島を占拠したりしたので、日韓が和解できない原因になっている。

ひとことでいえば、李承晩が大統領になったことで、韓国は李氏朝鮮時代に両班同士の政争であっとうな政治が行われない風潮から脱することに失敗したといえよう。また、彼の感情的な反日思想が、日韓関係の困難さのすべての原因でもある。

余談だが、日産事件で、カルロス・ゴーンを逮捕させて、鬼のいぬ間に主導権を握ろうという西川社長らの汚いやり方は、李承晩が国会議員を監禁して多数派を確保して、憲法などの改正をしたときのやり方そのものだ。

李承晩を韓国という国の風土が生んだ特異な状況と批判したいところだが、ゴーン事件を見てからそういう批判ができなくなってしまった。日本も韓国も似たところがかなりありそうだ。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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