『日本国紀』監修者・久野潤氏の問いかけに答える

呉座 勇一

久野潤氏(SNSより)と「日本国紀」:編集部

『日本国紀』問題で久野潤氏から再反論があった。

『日本国紀』論争、久野潤「呉座氏は私の問いに真摯に答えよ」(iRONNA)

真摯に答えよとのことなので、私の考えを述べておく。泥仕合にしたくないので、なるべく簡潔に答えようと思う。

匿名の批判をどう考えるか

久野氏の反論は多岐にわたるが、主要な柱の1つは「ネット上での匿名の批判を相手にしない」という自身のスタンスの正当性を改めて唱えた点だろう。ネット時代においては、著名人に多数の匿名の批判が殺到するので、全ての批判にいちいち対応できないというのは、私も痛感するところである。

しかし、久野氏の勤務先である大阪観光大学を揶揄するといった中傷を除くのは当然として、議論する価値のある主な批判を選んで反論することはできるのではないだろうか。久野氏は匿名の批判者は揚げ足取りや人格攻撃ばかりしているかのように語るが、実際には『日本国紀』の内容を真剣に検討しているものも見られる。

こはにわ歴史堂のブログ「『日本国紀』読書ノート」 

ちなみに百田尚樹氏が『日本国紀』執筆にあたって参考にしたと明言したWikipediaの記事も、匿名の人間によって書かれたものだ。匿名の批判を一律に切って捨てるのはいかがなものだろうか。

もちろん作者の百田尚樹氏をさしおいて「監修者」の久野氏が反論するのは僭越という考え方は理解できるが、それならば百田氏に代わって久野氏が「百田尚樹『日本国紀』をコンナヒトタチに批判されたくない」という記事を書くべきではなかったと思う。

『日本国紀』は朝日新聞を痛烈に批判しているが、現在に至るまで朝日新聞批判を主導してきたのは匿名のネット世論だろう。ネット世論の盛り上がりを無視していると朝日新聞に対して怒りをぶつけてきたのが昨今の保守論壇ではなかったか。自分たちに都合の良いネット上の意見は「国民の声」で、都合の悪いものは「誹謗中傷」では二重基準に思える。

「学界の通説」と「作家の思いつき」

久野氏の再反論のもう1つの主要な柱は

「学界の通説と作家の思いつきを同列に並べるのはやめてほしい」とのことだが、戦前日本が他国を一方的に侵略していたかのように断ずるかつての「学界の通説」がいかに実情を無視したものであるか。あるいは呉座氏の主張と違うところが多い、戦前の「学界の通説」についてはどう捉えているのか、という問いにこそ、答えていただきたい。

というものだ。要するに今現在支持されている「学界の通説」も絶対的真実ではなく、その後の研究の進展によって改められることがある、という指摘である。これは全くその通りで、私にも異論はない。

ただ別記事で既に述べたように、現在の「学界の通説」が後代の研究者によって将来訂正される可能性があるということは、作家の思いつきの方が「学界の通説」より正しいということを意味しない。

『日本国紀』問題を考える―歴史学と歴史小説のあいだ①

あるいは久野氏は御自身の研究成果が、(学界での真摯な議論ではなく)作家の思いつきによって簡単に覆されるかもしれない、と思っているのだろうか。だとしたら、いささか志が低いように感じられる。

「監修者」の責任

私が以前の記事で久野氏を批判したのは、自分が「コンナヒトタチ」扱いされたからではない。歴史学者である久野氏が「作家の思いつき」を高く評価していることを看過できなかったからである。

この前はあのように書いたが、私は久野氏には多少同情している。『日本国紀』の謝辞には4人の監修者の名前が載っているが、歴史学の専門家と言えそうなのは久野氏だけである。実質1人で監修したようなものだ。

久野氏は500pにわたる大部の日本通史の本を(久野氏の専門外である前近代史も含めて)2週間でチェックしたらしいが、率直に言って無謀なスケジュールだと思う。久野氏が校閲業務に専念できるなら可能だろうが、本務である大阪観光大学の仕事の合間にやる程度では到底十全な校閲などできない。

おそらく刊行時期が既に決まっており、執筆作業の遅れなどのしわ寄せが久野氏に及んだのだろう。少なくとも私が久野氏の立場だったら「そんな無理なスケジュールでチェックはできない」と断る。久野氏が十分に力を発揮できなかっただろうことを、私は気の毒に思っている。

けれども、であるならば、以前に別記事で述べたように、久野氏は「自分は実質的には一協力者にすぎない」と表明すべきだった。

『日本国紀』問題を考える―歴史学と歴史小説のあいだ② 

だが久野氏は、『日本国紀』の杜撰な校閲に対する批判に反論するためか、はたまた自己顕示のためか、自ら積極的に「監修」と称し、自身の『日本国紀』に対する貢献を喧伝している。そして「井沢説を取り入れて何が悪い。作家の斬新な着想に学界の研究者も学ぶべきだ」と言わんばかりの議論を展開した。久野氏の主張のうち、私が最も問題視しているのは、この点であることを改めて強調しておきたい。

呉座 勇一   国際日本文化研究センター助教

1980年、東京都に生まれる。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専攻は日本中世史。現在、国際日本文化研究センター助教。『戦争の日本中世史』(新潮選書)で角川財団学芸賞受賞。『応仁の乱』(中公新書)は47万部突破のベストセラーとなった。他書『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『日本中世の領主一揆』(思文閣出版)がある。