寿司職人になるには修業より学校?ホリエモンの意見は妥当か --- 吉岡 研一

寄稿

「寿司職人なるのに、修業は要らない」との堀江貴文氏の言葉は、激しい賛否両論を巻き起こした。私は、修業は不要だとは思わないが、むしろ、堀江氏のもう一つの主張、「寿司職人になるには学校へ行けばいい」には諸手をあげて賛成する。なぜなら、現在の日本は就業年齢が昔と比べて格段に上がっているからだ。伝説の天才寿司職人、藤本繁蔵は、10歳位で寿司職人の修業に入った。

写真AC、Wikipediaより:編集部

現在、最高の名手とたたえられる、すきやばし次郎の小野二郎は、26歳で寿司職人という遅いスタートだったが、8歳で料理旅館に奉公と、料理の修業は早い。このような早い就業年齢なら、10年修業も意味がある。20歳で社会人になるころに一人前になるからだ。

しかし、10代後半、または20代から10年修業となると、一番働ける年齢の頃を、下積みに甘んじなくてはならなくなる。畢竟、学校や研修の様な、技能、知識を集中的、系統的に、短期で教え込む場が必要になってくる。その意味で、寿司アカデミー、寿司マイスターの様な教育機関は必要だ。これは、修業が不要と言う訳ではない。学校で基礎を習っておけば、修業すべき事を見分けるポイントが見えて来る。少なくとも何も判らなくて修業に入るよりは、効率よく修業ができる。

要するに、修業と学校教育は排斥し合う関係でなく、お互いにおぎなう関係にある。はっきり言って現代では、修業だけでは、職人の養成は難しいと考える。私の少年時代、寿司職人になるには、修業しかなかった。ある時、近所の寿司屋に出前を頼んだところ、5貫ほど形のいびつな、握りつぶした様な固い握りの寿司があった。家族が苦情を入れたところ、主人曰く「すいません、修行中の若いのが、今日初めて握ったので」。彼は、1年間包丁を握らせてもらえず、握らせてもらえない、という古典的な寿司職人の見習い修業をしていた。

写真AC:編集部

学校を出ただけの寿司職人の未熟さを揶揄する向きもあるが、従来の修業オンリーの職人でもこういう事が起きる。職人の教育は、ドイツのマイスター制度の様に既に制度化されているものもある。日本も職人の教育制度の充実が望まれる。公立の職人養成の教育制度、講習会などの職人を教育する場を充実させるべきだ。

修業の問題はもう一つある。それは、見て覚えるには才能がいることだ。最近、アメリカで新進気鋭の女性寿司職人を知ったが、彼女は20歳を過ぎて日本人の親方の元で修業、1年間は包丁も握らせてもらえなかったが、それを過ぎると、すぐに頭角を現して、ニューヨークの権威ある料理人の賞を取った。

これは、修業の重要性と年齢は関係ないという例証になりそうだが、彼女は、アートスクールに通っていた。つまり、視る事の天性と系統的で持続的な訓練があったので、それが可能だった。そういう素質がない人間は、いくら修業の場にいても無駄になるし、一部の人間しか寿司職人になれない。そして見て覚える才能はないが、味がわかり、技能を身につける根気のある人、従来の職能訓練体系から脱落する人を、職人にするのに、教育機関は必要だと考えるし、結果的に寿司職人の裾野も広くなるのではないか。

吉岡 研一 ホテル勤務 フロント業務
大学卒業後、司法書士事務所、警備員などの勤務を経て現職。

(参考文献)
早川光『日本一江戸前寿司がわかる本』(文春文庫)
小野次郎・山本益博・菅洋志『鮨—すきやばし次郎 美・職・技』(グラフィック社)