週刊ポストでの井沢元彦氏から呉座勇一氏への公開質問状で始まり、なかなか充実した呉座氏の回答でその先の展開が楽しみだったが、今週号で井沢氏が一方的に終結宣言をして終わってしまった。
井沢氏は呉座氏が井沢氏の研究がなんの価値もないものと決めつけ、「推理小説家に戻られてはいかがだろうか」とした言葉をとらえ、「こんな人間に貴重な週刊ポストの誌面を割いて見解を書かせるのは時間の無駄である」と宣言したわけだ。
逆に井沢氏が同様に数年前の職業に戻れといったら呉座氏だって腹を立てただろうから、この打ち切り宣言は仕方ない。そのことで、せっかくの呉座氏の鋭い追及に井沢氏がどう答えるか楽しみだったのに残念である。
そして、私と呉座氏の論争については、アゴラ編集部からそろそろにしてはと言われていたし、早川忠孝先輩からのレフェリーストップ推奨もあったので、私に「忠告する」というアゴラ史上初めてと思われるタイトルの呉座氏の記事が二回続いたあとではあるが、内容には反論しないことにした。
私の言い分は、『日本国紀』発売の一週間後の11月17日の記事から始まって、呉座氏と久野氏の論争について評した1月16日の記事から、久野氏がどっかいってしまって昨日と一昨日に書かれた呉座氏の連続記事までしっかり時系列に従ってお読みいただければ幸いだ。
また、『「日本国紀」は世紀の名著かトンデモ本か』(パルス出版)が3月25日に刊行されているので、内容についての論評は過去のアゴラ記事をリバイスして書いたものだから、ぜひ、お読みいただきたい。
百田氏からの具体的な反論を待っているところだが、タイトルなど外見についてはいろいろお叱りを受けているが、内容はまだ、百田氏からもそのファンからもいただいてない。
ただ、呉座氏の最後の記事もそうだが、ひとこと、触れておきたいのは、一連の論争のなかで私のFacebookのスクリーンショットが使われたことだ。
私は毎日、Facebookでの投稿で、思いついたことを書いたり、質問をしたり、少し煽り目の仮説を書いたりする。それに対して、いただいたコメントを踏まえて考え直し、アゴラに投稿し、さらに考えて活字媒体に書いたり出版物にしている。
この過程で、Facebook→アゴラ→出版物とだんだん慎重な書きぶりにしている。Facebookは友人との雑談みたいなもののつもりで誤字も気にせずに書いている。アゴラもそれよりは慎重だが、活字媒体の時は当然修正ができないので、かなりしっかり考えて書く。
ところが、今回は、Facebook上でのつぶやきが、切り取って引用されてまったくとんでもない文脈でTwitterで拡散された(私はTwitterはアゴラなどの記事をシェアする以上には使っていないし、コメントもしていない)。また、昨日は、呉座氏のアゴラ記事でもスクリーンショットが引用された。
これは、私としては、想定しない使われ方だった。しかし、私がたまたまTwitter上の炎上をこれまで経験していないだけで、その可能性はあったのだから、迂闊であったことは認めざるを得ない。これからは、語尾に「?」マークでもつけるとか、「仮説だが、意見を聞きたい」と付け加えねばなるまい。「友達以外は非公開にしたら?」という人もいるが、友達の枠もそんなに残っていないし、友達でないが楽しみしてくれている人も多いので、それは避けたい。
なお、この論争の最後の段階で、呉座氏のタイムラインを見ようとしたら、いつの間にか私には見られないようになっていた。
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それから、Facebookの投稿をつまみ食いして第三者の有名研究者が興味深いコメントをされていたので紹介しておきたい。ただし、私はFacebookの投稿について文脈を無視してアゴラに掲載するのは潔しとしないので、名は出さない。
『喩えていえば、作家・評論家は客に近い「バーテンダー」であり、学者は「蔵元」である。「バーテンダー」の仕事における最低限の作法は、「蔵元」の仕事に対して敬意を払うことである』
と書いた政治学者がいる。
経済学者は蔵元でアナリストや経済人はバーテンダー、憲法学者は蔵元で行政官や司法関係者はバーテンダーなのだろうか。そういう例えにも疑問があるし、さらに、蔵元とバーテンダーは互いにその仕事に敬意を払うべきで、一方通行でいいとは思えない。
学者の仕事に誇りをもつのはいいが、ものには限度がある。博士課程修了者の就職難などは、研究者が自分たちをもっと尊敬しろといえばすむ話でないと思う。上から目線でなにも問題は解決しない。
これについて、HUAWEI問題で女を上げた女性評論家は、
「学者様からしたら評論家はバーテンダーってな。じゃあ、女性評論家はキャバ嬢か。すごい上から目線だな〜〜w」
と一喝していたが、一般社会人の感覚としてはこちらだと思う。
あるいは、私が呉座氏から「八幡氏への忠告」とかいう椅子から転げ落ちそうなタイトルでのご批判をいただいたのに少し腹を立てて、
「30歳若い方からこういう文書で『忠告』されたのは、初めての経験だ。変則的な上から目線だ。私はある職業のギルドに属して、そこの流儀に従って生きている人間でないので、自分は歴史学者、あなたは評論家、歴史については歴史学者の決めたルールで論じてくださいという論理にはついて行けない」
とFacebookで書いたら、非常にお怒りの方もおられた。
どこまでバトルの経緯を踏まえて仰っているのかは分からないが、そんな怒られる話なのだろうか。憲法について政治評論家や官僚や司法官も憲法学者の土俵において判断を仰ぐなんてあり得ないではないか。むしろ、主戦場は内閣法制局や最高裁判所である。
このあたりのやりとりを見ていると、古くて新しい難問を思い出す。世間ではしばしば「日本では研究者の待遇が恵まれない」と言われるが、とくに、博士課程を出ると研究者としての門は狭く、一方、企業や官庁などにも学士や修士よりチャンスが少なくなってしまうといわれる深刻な問題の原因が、アカデミズムと一般社会のどちらにあるのかという問題だ。アカデミズムと一般社会の雰囲気にはかなり違いがある気がしてくる。
いずれにせよ、この論争は、真摯なものだったが、早川氏のおっしゃるとおり、うんざりした読者もおられただろう。その気はなくとも、相互に投げ合った言葉の端々で傷つかれた読者もおられるようにも聞いているから、やはり、年長者である私がお詫びするべきであろうと思う。