トランプは大統領になる前から「テフロン・ドン」だった --- 山下 丈

2019年08月11日 06:00

7月24日のモラー報告書をめぐる米下院2委員会の公聴会では、民主・共和双方からの誘導尋問めいた質問に対して、ロバート・モラー元特別検察官は慎重な姿勢で終始し、報告書以上の結果は得られなかった。公聴会の前後、トランプ大統領は反撃のトーンを高め、人種差別的発言を繰り返しながらも支持は衰えないということで、「テフロン・ドン」と呼ぶケースも増えているという(相次ぐ銃乱射事件でもなお「テフロン」だろうか)。

Gage Skidmore / flickr:編集部

「度重なるスキャンダルでも傷つかない、テフロン加工のように丈夫」なドン(親分)の意味だが、トランプを「テフロン・ドン」というのは今に始まったことではない。

時間を遡りつつ米記事を見ると、民主党「テフロン・ドン」に困惑、「テフロン・ド(ナルド)対ザ・マスコミ」、「テフロン・ドン」の初期ファン、ブライトバートによるポストディベート調査「彼こそ真の“テフロン・ドン”」と大統領選に至り、中には、トランプは「テフロン・ドン」、ヒラリーは「ベルクロ」(ベルクロ社の特許、マジックテープはその日本商標)というものまである。

「テフロン」(デュポン社の商標名)とは対照的に、ヒラリー・クリントンには私用メール問題などがくっつき離れないという。

興味深いことに、大統領選立候補よりも遙か前(2012年11月)、数度の倒産も乗り越え、露悪的な自己宣伝上手で資産を増やしてきた実業家トランプ氏は「テフロン・ドン」とする記事がある。つまり、トランプは大統領になる前から「テフロン・ドン」だった。周囲を当惑させ、そのために生じた相手の隙をついて自己に有利に立ち回る。本来なら孤立するはずが常に圧倒的支持を得るという、年季の入った「テフロン・ドン」なのである。

更に先の大統領をたどれば、ヒラリーで見たように、ロナルド・レーガンは「テフロン大統領」、オバマは「ベルクロ大統領」とされた。レーガンが軍事・外交・経済政策で失敗しても、責任は側近がとり、米国民は変わらずレーガンを愛した。オバマは「私が」、「私が」と言い過ぎたというのである。

1983年8月、民主党パトリシア・シュレーダー下院議員が、レーガンは「テフロン・コーティングの大統領職」を築き上げたと(非難)演説。翌年にはマスコミ各社が「テフロン・スーツの大統領」といった表現をし、イラン・コントラ事件後はいっそうそのように言われた。

彼女は議員引退後、「ある朝、子供のためにテフロンのフライパンで卵を混ぜていて、彼は「テフロン大統領」だと気づきました」と語っている。彼女はコロラド州初の女性下院議員であり、上院に女性議員は皆無の時代に、主婦として母として議員活動を続けた実績を持ち、それを強調する回想ではある。

1992年4月ニューヨーク、FBIジェイムズ・フォックス捜査官は、元祖「テフロン・ドン」の有罪判決について、「テフロンは剥がれました、ドンはベルクロでぐるぐる巻き」と宣言した。NY最大のマフィア「ガンビーノ一家」のトップに君臨したジョン・ゴッティは、しゃれた身だしなみと華やかなセレブ交流で「ダッパー(しゃれ者)・ドン」と呼ばれた。TIME誌1986年9月25日号の表紙に、アンディ・ウォーホルが彼の肖像を描いた

例えばジョン・ヴォイト(女優アンジェリーナ・ジョリーの父、真夜中のカーボーイ1969年)は、1978年公開「帰郷」でアカデミー主演男優賞(1979年)を獲得。次の役作りの参考にと、「帰郷」のハル・アシュビー監督と共にゴッティが経営するクラブにやって来て、ゴッティと大いに意気投合した(Sullivan, Tears & Tiers,1997, p.223.ヴォイトは否定)。

ミッキー・ロークは、イヤー・オブ・ザ・ドラゴン(1985年)、ナインハーフ(1986年)、エンゼル・ハート(1987年)と、俳優として旬の存在だったが、ずっと暗黒街との縁が続いていた。とりわけエンゼル・ハートでは、そうした噂の絶えなかったフランク・シナトラを思わせる人物を演じている。ゴッティ裁判では、ゴッティの家族と並び傍聴人席の最前列に座った。ゴッティはこれを多として、マイアミのボクシング・バーを彼に贈っている(McPhee, A Mob Story, 2002, p.98)。

ゴッティは、所有する高級イタリアンレストランの常連アンソニー・クインとも親しかった。道(1955年)、アラビアのロレンス(1962年)、その男ゾルバ(1964年)などの名作を残したクインは、もはや晩年を迎えており、海外の小作品や舞台に転じていた。マフィアの保護がなければもっと早くそうなっていたと噂された。傍聴後クインは、マスコミのインタビューにも応じている。裁判後の1996年には、テレビ映画『ゴッティ・ザ・マン』でゴッティのメンター(組織内の指導役)を演じた。

ヘビー級プロボクサーのレナルド・スナイプス(1981年、ラリー・ホームズに挑戦し破れた)は、法廷でゴッティを支持する証言を行ったが、陪審員を威圧しているように見えた。有名人来場は、裁判所前のゴッティ支援デモと同様、仕組まれた陪審対策だった。担当のマロニー検事は、「我が方のクリント・イーストウッドはまだか」と言った(Capeci & Mustain, Gotti, 2012, p.413)。

ゴッティはそれまで三度起訴され三度無罪となったことから、レーガンの「テフロン大統領」にちなみ、「テフロン・ドン」と呼ばれるようになる(Raab, Five Families, 2016, p.399)。だが四度目は、ナンバー・ツーのサミー“ザ・ブル(雄牛)”グラバーノが司法取引し、検察側証人となったことで、ゴッティはついに有罪になったのだった(のち病死)。

サミーの証言は1994年2月まで続き、大勢の構成員を刑務所送りにした。彼自身19件の殺人に直接間接に関与した罪に対し、功績を考慮され5年の刑となった。判決まで5年近く経過していたため、じき証人保護プログラム下で別人生活に入ったのである。翌年9月、大和銀行NY支店巨額損失事件のI被告は、司法取引に応じたきっかけとして、「19人殺しても5年」と英文自著に記している(My Billion Dollar Education, 2014, p.201)。

サミーは破天荒な性格だったらしく、じき実名に戻った上、薬物取引の罪で今度は長く服役し、2017年9月出所時には72歳になっていた。翌年4月、トランプに解任されたジェイムズ・コミー前FBI長官が自伝”A Higher Loyalty”(藤田=江戸・訳『より高き忠誠』2018年8月)を出版。若き日のサミーとの邂逅に触れ、トランプの態度はまるでサミーから聞いた儀式でのマフィアのドンみたいだったと記すと、マスコミがサミーのもとへ殺到し、こんな大統領をどう思うか尋ねた。「それで上等、世界の指導者どもときたら本物のギャングの親玉だ。こっちが「本の虫」じゃならねえ」と、サミーは答えた

連邦検察NY南支局(マンハッタン)トップとして、次々にマフィア犯罪を摘発し名声を得たルディ・ジュリアーニ検事は、1989年1月、レーガン退任と同時に職を辞し、NY市長選を目指した(初回は落選)。そのため「テフロン・ドン」の起訴は、NY東支局(ブルックリン)に委ねられる。

そのように差配したのが当時のロバート・モラー司法長官補で、身勝手な上司ジュリアーニを恨んだのが部下のジェイムズ・コミー次席検事だった。数年後、コミーはNY南のトップに就任し、サミーの多くの証言事件を手がけた。このたび、ジュリアーニはトランプの顧問弁護士としてモラーと激しく争った。つまり、全員が因縁の登場人物だったのである。

山下 丈(やました  たけし)日比谷パーク法律事務所客員 弁護士
1997年弁護士登録。取り扱い分野は、商法全般(コンプライアンス、リスクマネジメント、株主総会運営、保険法、金融法、独禁法・景表法、株主代表訴訟)、知的財産権法(著作権、IT企業関連)。明治学院大学法科大学院教授などを歴任。リスクマネジメント協会評議員。日比谷パーク法律事務所HP

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