富岡製糸場に感動:「まことに小さな国」の大きな夢

夏休みに国内旅行も良いものですよね。私は旅行や出張の際に史跡名所などに立ち寄ると司馬遼太郎さんの「街道をゆく」調の独白が頭の中に浮かんできて、ついつい司馬遼太郎ごっこをして遊んでしまいます。ちょっとバカみたいですが、その土地の文化や歴史について多少の蓄積が、子供や学生の頃とは違う愉快を感じさせてくれるのは大人ならではの楽しさではないでしょうか。

当時の国家プロジェクトにして、巨大とは言えない建物に感動

先日ちょっと近くまで行ったので、富岡製糸場に初めて立ち寄りました。2014年に群馬県内の3市1町に点在する「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産に登録された直後は人が殺到したようですが、平日ということもあって程よい賑わいで、ゆっくりと見ることができました。

一番の感想は、当時の国家プロジェクトにしては、本当に“こじんまり”しているなー。というものです。今でいえばちょっと立派な小学校ぐらいの規模です。

いえ、決してバカにしているのではなく、むしろその小ささにこそ心底感動しました。千里の道も一歩より。我々の祖先は、明治維新後まだまだ日本というものが本当に小さな国だった時代、自分たちの身の丈にあった、養蚕という決して楽でも簡単でもない事業に当時として国家財政の多くを支出したわけです。お雇い外国人に当時の大臣並みのお給料を払い、大きく特別な邸宅も用意し、女工さんに士族の子女など良家から来てもらうなど、まさに国運をかけました。熱いお湯で繭玉をほぐす大変な仕事にみんなで取り組んだわけです。

まことに小さな国が、開花期を迎えようとしていた

そして思い出されたのが。司馬遼太郎の「坂の上の雲」の冒頭です。

富岡製糸場の開業が1872年(明治5年)ですから、「坂の上の雲」が描く光景にまさに重なりました。ちょっと長めですが、この冒頭を嫌いな人はいないでしょうからあらためて引用させてください。NHK大河ドラマの冒頭ナレーション版で紹介します。

まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。

小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。

産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族しかなかった。

明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものをもった。誰もが「国民」になった。

不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。

この痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。

社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格を取るために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。

この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。

今から思えば実に滑稽なことに、米と絹の他に主要産業のないこの国家の連中がヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。陸軍も同様である。

財政が成り立つはずは無い。

が、ともかくも近代国家を創り上げようというのは、もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民達の「少年のような希望」であった。

この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振る舞ったかという物語である。

主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれない。

ともかくも、我々は3人の人物の跡を追わねばならない。

四国は伊予の松山に、三人の男がいた。

この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるにあたって、勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て、それを実施した。

その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団を破るという奇蹟を遂げた。

もうひとりは、俳句、短歌といった日本の古い短詩型に新風を入れてその中興の祖になった、俳人正岡子規である。

彼らは、明治という時代人の体質で、前をのみ見つめながら歩く。

登っていく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を登ってゆくであろう。

そう日本は300年鎖国してきた極東の島国だったわけです。この司馬遼太郎「小さなといえば、明治初期の日本ほど小さな国はなかったであろう。」という言葉、先人の努力の賜物ですでに経済大国になってからの日本に生まれた我々世代からはちょっと想像できませんが、これほど当時の日本を端的に表現する文章はないでしょう。

奇しくも日本の真ん中、富岡という土地から始まった産業立国

初めての官営製糸場を設置するにあたっては他に長野、埼玉など国内3か所の候補があったとのことです。お雇い外国人ポール・ブリューナと初代場長となる尾高 惇忠(おだかあつただ)が視察をして、桑畑が多くもともと養蚕業が盛んであることや水や木炭などの調達が容易であること、そして何より全町民が賛成しており協力的であったことが富岡に決まった最大の要因であったとのことです。

それにしても富岡という地理的に日本のヘソ(諸説あるようですが、近隣の群馬県渋川市は有力候補のひとつです)のような場所に立地したことは今となっては象徴的な気がします。どうしても大都市圏に住む人間からすると、群馬県というとただひたすら「田舎」というような漠然としたイメージですが、実際には水も緑も豊かな日本の美しさを体現するような場所ですし、住民の方や生活もしっとりと落ち着いているように感じました。

あらためて、日本の「田舎」が持つ力に刮目

余談ですが、女子ゴルフの渋野日向子選手が世界メジャーのAIG全英女子オープンに優勝するという快挙を遂げましたが、彼女の出身も岡山北部の「田舎」です。テレビで練習環境を取材していましたが、なんと田んぼのような池にボールを打っていくなんとものどかな風情でした。彼女の素朴な人となりを含めて、あーこういう環境がこういう人を育てるのだなーとしみじみと感動しました。

自分が都会暮らしをやめられないのに言うのもいけないのでしょうが、日本の「田舎」には昔も今も豊かな自然と落ち着いた環境で人間に何か肝心なことに取り組ませる力があるのではないでしょうか?日々、刺激的で便利ですが、少々複雑過ぎて雑然とした日常を送っている私としては、富山製糸場とその周辺の環境に「まことに小さな国」の大きな夢の原点を感じ、何かリセットされたような心地よさを感じたのでした。

秋月 涼佑(あきづき りょうすけ)
大手広告代理店で外資系クライアント等を担当。現在、独立してブランドプロデューサーとして活動中。ライフスタイルからマーケティング、ビジネス、政治経済まで硬軟幅の広い執筆活動にも注力中。秋月涼佑のオリジナルサイトで、衝撃の書「ホモデウスを読む」企画、集中連載中。
秋月涼佑の「たんさんタワー」
Twitter@ryosukeakizuki