戦後に沖縄を蒋介石が併合しなかった理由

戦後、沖縄が27年の米軍統治のあと日本に戻れたのにはいくつかの幸運があった。沖縄についてアメリカのルーズベルト大統領は、蒋介石に日本への領土要求はないかと打診した。沖縄を欲しければ認めてもよいというシグナルだった。

蒋介石(Wikipedia:編集部)

もちろん、中国政府にも中国領にしようという意見もあったが、蒋介石は態度を明確にしなかった。というのは、独立運動もないし、それ以上に、満州や内外蒙古の独立阻止や台湾返還主張にマイナスだと考えたからだ。

すでに、外蒙古にはソ連の傀儡国家が成立していたし(いまのモンゴルは立派な独立国家だが最初は傀儡国家だった)、内蒙古にその版図を広げようとする可能性があった(漢民族が多数派なので断念。ただし、モンゴル国民より多い蒙古族が住む)。満州についても、ソ連とかモンゴルが全部または一部を併合するなどしかねない状況だった。

そうしたときに、五族共和(漢満蒙回蔵)の多民族国家を自負する中国は、民族自決の原則に基づいて大清帝国から譲られた領土を一寸たりとも譲れないと考えていた。ところが、日本民族の住む沖縄を自分のものにすると、民族自決の旗を自ら降ろすことになってしまうことを心配したのである。

つまり、沖縄を得て満州や蒙古を失うのが怖かったというわけだ。ただし、日本に帰属させるのかと言えば、それは、別途話し合いましょうという立場で、信託統治や非武装化も模索した。

しかし、国民党は共産党に追われて台湾へ移ったので幸運にもすべてがうやむやになった。そして、サンフランシスコ講和条約でアメリカ軍の施政権下に置かれた。

サンフランシスコ平和条約に調印する吉田首相(Wikipedia)

この経緯について、沖縄を見捨て平和条約を結んだことが非難されることが多いし、たしかに、そうせざるを得なかったのは沖縄の人々に申し訳ないことなのだが、現実的な判断としては、もし、蒋介石が逐われずに、中国政府として条約交渉に加わっていたとしたら、沖縄の日本への帰属について容易に同意しなかった可能性が強い。

また、将来の本土復帰の可能性を残すためには、中国の干渉を排除する必要もあった。そういう観点からは、内心忸怩たるものはあるにせよ、アメリカの施政政権下に沖縄を置き、アメリカとの二国間交渉で沖縄の地位を変更できるようにしておいたのは、まことに、賢明な措置だったといえる。

このことは、昭和天皇が米軍が沖縄で駐留を長期間継続することを希望されたと言われることも肯定的に見るべき根拠でもある。

すんなりと沖縄が日本に戻ってくるというわけにはいかない状況のもとでは、まことに賢明な現実的判断だったと思うし、そのことの正しさは沖縄の本土復帰で立証されたのだと思う。

ただし、そうだからといって、沖縄の人を置き去りにしたことに違いはなく、ヤマトの人間が、沖縄の人々への深甚なるお詫びと感謝の気持ちを持たねばならないのはいうまでもない。

本土復帰問題の経緯をみると、保守系では、いずれは返還すべきだと考えるにせよ早期の返還には経済上の理由から躊躇する人も多かったなかで、沖縄県の教職員組合がもっとも熱心に無条件の復帰を運動し、日の丸掲揚運動を展開した。

これに対して、北京政府は、米軍基地撤去への期待もあり、日本復帰運動を支持した。それに対して、台湾の国民政府は日本への返還に際しては、相談して欲しいという立場をとり、独立運動への支援を行ったこともある。

本土の保守系の人は沖縄の教職員組合など革新系の人々や北京の中国政府を批判するが、沖縄の本土復帰を誰よりも真摯に追求したのが革新系の人々であり、日本への帰属を妨害した蒋介石に対し、毛沢東がそれを支持してくれた恩義は、そのかくれた意図がなんであれ、忘れるべきではない。

そして、1964年に佐藤栄作が首相に就任し、その翌年に沖縄を訪問して、「沖縄返還なくして戦後は終わらない」と声明した。

佐藤栄作元首相(Wikipedia:編集部)

佐藤栄作首相は、交渉に国民政府が異議を唱えないように、1967年に訪台して蒋介石総統に仁義を切った。アメリカの基地を維持することが台湾にとっていちばん大事なのではないかということを説明し、基地維持を条件に返還に異議を唱えないことを求めた。蒋介石は、了解はしなかったものの、米軍基地が存続するのであればと黙認することにした。

基地の廃止はベトナム戦争中であり現実性がなかったので、革新勢力は抗議したもののそれほど現実的な議論にならず、「核抜き本土並み」かが争点となった。1969年に返還の約束がされ、1971年に返還協定締結、返還されたのは、1972年の5月である。

佐藤首相の行った密約などを批判する人がいるのは当然だが、そういうことなしで、あの時期に返還が可能だったとは思わない。

また、返還が実際にされた1972年5月の直前の2月にはニクソンが北京を訪問している。このあたりでもたもたしていたら、北京がなんらかの横やりを入れた可能性もないわけでなく、佐藤首相の「拙速」と「ごまかし」も総合的にみれば妥当だったというべきだ。

その後の状況をみると、北京は公式には、沖縄が日本であることを否定していないが、一部には、返還前の国民政府のポジションに近いことを言う勢力が出ている。

一方、台湾については、私がある機会に謝長廷・台北駐日経済文化代表処駐日代表に質問したら、「現在の中華民国政府は名称のいかんにかかわらず台湾政府である。蒋介石時代に中国政府としての立場でいったことを必ずしも継承するものでない」という答えだった。つまり、日本の領土として認めないというような見解はとっていないということらしかった。

八幡 和郎
八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授