朝鮮半島分断小史④ モスクワ外相会議前の米ソ両国の思惑

2020年02月19日 06:00

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前稿の小史③で「(北の共産化で)南に逃れる民族主義者が続出した」と書いたので、本論の導入部として、当時の朝鮮半島の人口分布を森田前掲書を基に作成してみた。なお、38線に跨る江原道は南北ほぼ3対2の比率で人口を案分した。

*1949年の数字の出典・・北朝鮮→北朝鮮中央統計局、韓国→韓国統計庁
*現在の数字の出典・・北朝鮮→2015年国連経済社会局、韓国→2016年韓国統計庁

南北の指導者は当時さかんに「3千万同胞」と称した。が、70万余の日本人を除いた朝鮮人は26百万人で、4年後の49年には北で141万人減り、南で525万人増えた。ラングドン朝鮮軍司令長官顧問はモスクワ外相会議を前にした45年12月14日のバーンズ国務長官宛の書簡でこう記した。

ロシアと満州からの50万人を含む160万人の難民が入って来て、我々の地域(*南朝鮮)の生活条件は次第に厳しくなりつつある。目下、我々の手中にある韓国の人口の4分の3が、我々にそれらの問題の解決を求めている。その責任は主として我々にある。

知られる通り日治期の朝鮮経済は、北は工業、南は農業が主体。それが分断され、南では電力を含む工業製品が、北では農産物が当然に不足した。書簡は北朝鮮やロシア・満州から流入した160万人が南の経済を圧迫しているともする。南の増加には内地や海外からの帰国者も含まれようが、北の減少数はほぼ整合する。

45年12月予定のモスクワ外相会議の準備段階で、駐ソ米国大使ハリマンが11月8日にモロトフソ連外相に宛てた書簡(FRUSモスクワ初回会議議事録より拙訳)があり、(1)でそのことにも触れている((2)や(3)は、南北統一を模索し北を支援したい韓国文政権の思惑を見るようだ)。

親愛なるモロトフ:米ソの占領地域への朝鮮分割その他の未解決の問題に関連して、私は政府から、通信、商業、金融の合理化に関しソ連政府と交渉する暫定協定の可能性を探るよう指示されました。

朝鮮米軍司令官ホッジ将軍はこの問題で朝鮮ソ連軍司令官と現地の軍ベースで交渉する権限を与えられています。が、ソ連司令官はその権限を持たないようです。従い、朝鮮全体に影響を与える緊急の経済的社会的問題は未解決のままです。

具体的な問題は以下です。(1)南部地域で使うための北部地域からの石炭や電力の移送などの商品交換再開(2)両地域間の鉄道・海運その他の交通再開(3)朝鮮全体で統一された財政政策の確立(4)日本人帰還を含む避難民問題の秩序立った手段による解決。

米国政府は、ソ連政府が朝鮮ソ連軍司令官にこれらの問題でホッジ将軍と交渉することを許可する準備があるか、またはこれらの問題が両政府間で議論されることを望んでいるかを確認したい。

冷風が吹き始めた米ソ間の主要な課題は東欧と日本と核だった。とりわけスターリンにとっては、欧州大戦以上の酷い目に遭わされたドイツと日露戦争前から脅威であり続けた日本を二度と立ち上がれないようにすること、そして先を越された核爆弾の管理をどう有利に処理するかが重要だった。

モスクワ外相会議前にポツダムで一堂に会した会議参加者。後列左2番目からベヴィン外相、 バーンズ国務長官、 モロトフ外相。前列は左からアトリー首相、トルーマン大統領、スターリン書記長(Wikipediaより)

トルーマンとバーンズによってポツダム宣言の署名から土壇場で外されたこと(日本参戦していないと蒋介石に差替)も、スターリンをして、天皇と日本政府が「従属する」連合軍最高司令長官の二人目にワシレフスキー将軍の任命を要求するなど、態度を硬化させた(「朝鮮分断の起源」小此木征夫)。

ヤルタで約した定例の外相会議として開いた、9月11日〜10月2日のロンドン会議でもバーンズは強行だった。下斗米伸夫は、これにはハリマンやソケナンも眉を顰め、モロトフも再三激怒するなど、「米ソ関係の悪化には個人的な要因も関係していた」とする(「モスクワ外相会議再考」法学志林論文)。

スターリンの意向もあって、モロトフは東欧やバルカン(単独行動した)で強硬姿勢を取り、バーンズも対抗して日本(朝鮮を含む)問題を論じることを拒否、かくてロンドン会議は決裂し、朝鮮独立問題は議論されることなく閉幕した。

ローズベルトの死後、退任の時期を探っていたハリマンは辞表を出すが、バーンズは手詰まり状態を理由に慰留する。ハリマンは同意し、トルーマンの親書を直接スターリンに手渡すことを提案、休養中のスターリンを、グルジア共産党総書記時代のベリアの別荘のあるソチに訪ねた。

親書を注意深く読んだスターリンは、「日本問題が触れられていない」と反応した(小此木前掲書)。が、スターリンにとって日本問題は、それで譲ってルーマニア・ブルガリアでの主導権を得るためのバーター案件としても必要だった、との趣旨の見立てを下斗米は前掲論文でしている。

それは核爆弾の問題とも関連していて、ソ連は自国でほとんど産出しないウランをベルリンから100トン接収したもののそれで足りる訳もなく、ルーマニアやブルガリアに豊富に埋蔵されるウランを得んがため、日本を譲っても両国の管理を独占したかった(下斗米論文)。

日本管理の権限をマッカーサーに最終的に委ねることが議論されている、などとするハリマンの説明に、スターリンはソ連軍だけが駐屯するハンガリーとルーマニアの例を引いて、「それを聞いてうれしい」と納得した。その時点での北と南の朝鮮にも、米ソ両国の軍政が布かれていた。

ロンドンでの失敗を取り戻したいバーンズは、ヤルタでの外相定期会議の約束を思い出し、トルーマンの了承を得てモロトフにモスクワでの外相会談開催を提案した。モロトフは受け入れ、12月15日の開催と決まった。1月には初の国連総会が予定されていたタイミングだった。

バーンズがモロトフに提案した議題は、(1)核エネルギー(2)外相理事会の再開(3)対日理事会・極東委員会の設立(4)朝鮮独立政府の樹立(5)中国およびイラン問題(6)ルーマニアとブルガリアの政府承認などで、ここに至り漸く朝鮮半島問題が俎上に上った。

バーンズは英外相ベビンとの調整で「朝鮮独立政府の樹立を迫るつもりだ。受け入れられなければイタリア植民地のために示唆した、国連の下での限定期間の信託統治に賛成する」と述べたが、独立政府とは何か、どう樹立するかなど明確でなく、これが後に議題の混乱を来すこととなる(小此木前掲書)。

米英ソ外相のモスクワ会議は12月16日、バーンズ国務長官、ハリマン駐ソ大使、ヴィンセント極東局長、ボーレン国務長官補佐兼通訳ら米国代表、モロトフ外相、ヴィシンスキー外務次官、マリク駐日大使らソ連代表、そしてベビン外相、カドガン国務長官、カー駐ソ大使ら英国代表によって始まった。

本稿で「分断小史」を終わる予定でしたが、ほんの数ヵ月間の出来事とはいえ、極めて複雑な問題をどうまとめるか迷路に入ってしまいました。次回にモスクワ協定の概要とそれを巡る南北朝鮮の様子をまとめて最終稿といたします。

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