「ゼロリスク脳」に政治が振り回された10年(アーカイブ記事)

アゴラは10年前から「汚染水」の問題に取り組んできました。この2013年9月の動画を見ていただけばわかるように、「トリチウムはALPSでは除去できないので、薄めて流すしかない」という結論は最初からわかっていたのです。(2020年の記事の再掲)

風評被害は自己実現する

福島第一原発事故による死者はゼロだった。これは国連科学委員会の報告した正式の調査結果である。大きな2次被害が出たのは動転した民主党政権の過剰避難によるもので、今日まで続いている被害のほとんどは、マスコミの作り出した風評被害である。

ところがマスコミはこういう科学的事実をほとんど報じず、いまだに福島の「汚染水」を騒いでいる。このようなバイアスは「コロナで42万人死ぬ」と叫んだコロナ脳とも共通である。そこには(なかば遺伝的な)脳の構造がある。これをゼロリスク脳と呼ぶことにすると、その特徴は次のようなものだ。

  1. リスクを相対化できない:多くのリスクのトレードオフを考えないで、特定のリスクだけをゼロにしようとする。「放射能よりタバコのほうがたくさん死んでいる」と指摘すると、「タバコは自分で吸うのだからいい」という。間接喫煙の死者でも放射能より多いのだが。
  2. 確率を考えない:青酸カリは0.2グラムで死ぬが、タバコの煙は0.2グラムでは死なないのでタバコのリスクは青酸カリより小さいという政治家がいる。リスク=ハザード×確率という初歩的な知識もない人が、エネルギー政策を動かしている。
  3. 最大の損失を最小化しようとする:感染症や放射能のように大きな不確実性に直面したとき、人々は経済学の想定する「期待効用最大化」のような行動はとらない。こういうときは脳のスイッチが切り替わり、「42万人死ぬ」といった考えられる最悪の場合のリスクを最小化しようとするミニマックス原理で行動する。
  4. 安全ではなく安心を求める:科学的に安全でも、心理的な安心を求めて際限なくリスクを回避する。その典型が処理水の問題である。環境基準以下に薄めて流せば人体に危険はないが、恐いという風評がある限り漁民は海洋放出に反対する。
  5. 不安が不安を呼ぶ:個別のリスクを定量的に評価するのは認知コストがかかるので、他人の行動を見て同調する。政治がそれに迎合すると「海洋放出できないのは危険だからだろう」とますます不安になり、不安が不安を呼ぶ悪循環が起こるのだ。

恐怖は進化の早い段階で生まれた感情で、すべての脊椎動物にそなわっている。敵から逃げることは生存にとってもっとも重要な行動なので、恐怖は他のすべての感情に優先して起動するのだ。

未知の動物が近寄ってきたとき「これは敵か味方か」と合理的な遅い思考で推論していると捕食されるので、瞬時に逃げる速い思考が作動する。これは生存にとって必要な衝動なので、すべての人が「古い脳」で遺伝的に身につけている。

こういう恐怖は動物的な衝動なので、大脳皮質などの「新しい脳」で論理的に説得することはできない。「科学が風評に負けるのは国辱だ」というのは豊洲問題のときの石原慎太郎氏の名言だが、科学的に証明できない安心を求めると際限がなくなる。

処理水の安全性は自明だが、マスコミが危険だという風評を流布すると魚が売れなくなり、風評被害は自己実現する。それをマスコミは「行政の説明が必要だ」というが、話は逆である。マスコミが黙ればいいのだ。

些細な問題を大問題にした「無責任体制」

福島の最大の失敗は、ゼロリスク脳を民主党政権が政治利用し、際限なく安心を追求して非現実的な安全基準を設定し、莫大なコストをかけて除染を行ない、法的根拠なくすべての原発を停止したことだ。こうした政府の行動によって人々の不安が正当化され、古い脳に刷り込まれてしまった。

原子力規制委員会の田中俊一委員長は、2017年に東電の川村会長が海洋放出を示唆したとき、「はらわたが煮えくり返る」と発言して、処理を混乱させた。彼が今ごろ「薄めて流すしかない」というのは無責任である。

安倍政権も、原子力については何もしなかった。止まった原発を再稼動もせず、福島には凍土壁という役に立たない設備をつくり、風評被害が世界に拡大するのを見ているだけだった。マスコミも最近は「汚染水」といわなくなったが、漁民の「お気持ち」を大事にしろという。

この10年の結論は、感情的な安心を求めると政治的決定は永遠にできないということである。大衆の不安を政治的に利用する反社会的勢力は、つねに騒ぎを蒸し返す。コンセンサスを求める努力は必要だが、全員一致は不可能なのだから、早い時期に内閣が海洋放出を決定すべきだった。その拒否権は漁協にはない。

こんな科学的には些細な問題に10年の時間をかけ、最初からわかっていた結論を実行するだけに800億円のコストをかけた今回の騒ぎは、日本のデモクラシーの根本的な欠陥を示している。