中野区の秘史1 ~中野町+野方町=中野区?の謎~

加藤 拓磨

中野区の空撮(tupungato/iStock)

1932年に豊多摩郡旧中野町・旧野方町が東京市(現在における23区特区制度)に編入される際に、再編され東京市中野区が成立した。

この際、「中野」「野方」が合併されるのであれば「中野方」「中方」といった名前が妥当なのでは考えるところ、何故「中野」になったのか。

先日、「今から90年前 東京「中野区」成立の背景にあった2つの命名説――いったいどちらが真実なのか」という記事がyahooに転載されていた。

いろいろと調べて見ると、1932年に中野区となったのは、誕生当時から町の中心地が中野町だったからという背景があるようです。
この地域に最初の鉄道駅となる「中野駅」ができたのは1889(明治22)年で、甲武鉄道(現在の中央線)が新宿~立川駅間に開業時のことでした。
当時の駅はもう少し西側にあり、現在地に駅ができたのは1929(昭和4)年のことですが、いずれにしても地域の中心地は中野駅がある中野町でした。このため、区名が中野区ということになったようです。

甲武鉄道のほかにも江戸城建設のために敷かれた青梅街道の存在により中野町に賑わいがあったといわれている。

また同記事では以下を記している。

当時の文献を見ても、合成地名で中野区に決めたという具体的な証拠は見当たりませんが、合成地名の説がこれだけまかり通っているのは、土地の有力者同士の間で「合成地名という理屈にしよう」という妥協案というべき、口約束があったのではないかと考えられます。

当時、土地の有力者は議員もしくは議員と親しい方々であることが多いため、筆者は中野区命名の答えが区議会の歴史にあると考え、中野区議会史(区政50周年記念、1932-1981年)を読み込んだ。

中野町と野方村(中野区議会史、4ページ)

明治政府の殖産興業政策、それに続く資本主義の発展、首都となった東京の急速な成長で、本地域は都市近郊地帯としての変化がしだいに現れてきた。
中野村から中野町へ、それから27年遅れて野方村から野方町へとそれぞれ町制が敷かれたが、中野町と野方町には、農村から近郊住宅地へと変化する時期に大きなずれがあった。
両町の違いは、まず明治末年から大正初年に至る人口増加の差である。中野町は明治40年代に戸数、人口が急激に伸びたが、野方町はほとんど大きな変化を示していない。~(中略)~大正4年の職業別構成比(表1)をみると、中野町は工業、商業の合計が47.6%であるのに、農業は13.7%にすぎない。これに比べ野方町は、農業が半数以上を占める農業地帯であった。

大正4年の職業別構成比(表1)(中野区議会史、4ページ注釈)

また以下のような記述もある。

区政施行時の中野区、19ページ注釈
当時の中野、野方の町民にとって、この合弁は驚くべきことであったらしい。中野町の青梅街道筋は、相当ないん賑を極め、近在から農民などが往来し、商家、問屋、銀行と見るべきものが多く、町の財政状態も良かった。そのため財政経理の点で面倒なことをいう東京市に併合するよりは、町独自でいるほうが学校建築も円滑に進む-という声が多く、宝仙寺の大銀杏の下の役場へ火をつけようなどという声も2、3人の口に上がったという。野方地区は、当初むしろ落合と結んで一つの区を形成するのではないかと考えられていたが、鈴木庄八氏(元議長)らの首長で中野町と合弁する気運が高まった(『中央新聞』37年9月28日号の記事による)。

中野区編成の過程では落合町を含めた三町による合弁案もあった。

中野区の区域決定(中野区議会史、12ページ)

区ノ編成ニ関スル意見書類要項(7年5月23日現在)のなかの原案「中野区(中野町、野方町、落合町)」に対し次の5つの意見書が提出された。~(中略)~その結果、落合町が淀橋区に編入を希望していることと東京逓信局長の要請による妙正寺川によって区域を決めるのが一番いいという理由で、落合町は中野区から除かれて淀橋区に編入されることに修正された。

中野区編成に重要な事実の多くが、読み落としてしまいそうな注釈資料に記載されている。

全面には押し出したくないが、書き残すべき事実であるためだと考えられる。

ここまでの事実と私の推測をまとめると、甲武鉄道、青梅街道の存在により財政的に豊かであった中野町は当初、野方町との合弁は愚か、東京市への編入もせずに自治体として維持する意向であった。

野方町は落合町との合流も考えたが、それが叶わず、しかし東京市に編成されるために中野町との合弁に同意した。

立場の弱さから野方の名前を残したいとはいいがたいが、「中野」の「野」は「野方」の「野」という解釈が残ったと考えられるのではないか。

ちなみに東京市豊多摩郡野方村は今をときめく鬼滅の刃の主人公「竈門炭治郎」の兄弟子である「冨岡義勇」の出身地である。

【参考】

中野町は当時としては先進的に町会を細分化し、1963年から順次区内の住居表示が実施され、1967年までに全域の住居表示実施が完了し、地図上からは旧名、町会名などがなくなる。

野方町は大きな区画のままであったため、現在においても名前が残っているところは多い。(参考:Wikipedia 中野区の町名

昭和初頭における中野区の行政地図(中野区より借用)
現在における中野区の行政地図