豊臣と徳川の真実⑬ 二条城会見は加藤清正の大失策

※編集部より:本稿は八幡和郎さんの「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)、「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎」 (光文社知恵の森文庫)などを元に、京極初子の回想記の形を取っています。前編「織田と豊臣の真実」はこちらから全てお読みいただけます。本編の過去記事リンクは文末にあります。

豊富秀頼像 京都市東山区養源院所蔵品/Wikipedia

右大臣秀頼さまについて、あまり出来のいい若者でなかったようにいう方がおられますが、それはありえません。

なにしろ茶々は大変な教育ママでした。舟橋秀賢さまに政治、法律、軍学、漢籍、和歌などを教授させています。秀賢さまはあの清少納言を生んだ清原家(天武天皇の皇子で「日本書紀」を編纂した舎人親王の子孫)の流れをくみ、後陽成・後水尾天皇の侍読(家庭教師)でもあった当時としては最高のインテリです。

また、最後の近江守護だったあの六角義治さまに弓矢を教授させるなど武道もしかるべく教えていたようで、当時としては最高の教育レベルだったと申せます。

秀頼さまの上洛は、秀忠さまの将軍宣下のときに打診があったのを茶々の反対で沙汰やみになり、その後も機会がなかったのですが、家康さまからいちど会いたいという強い申し出がございました。

茶々は豊臣と徳川の関係がどうのこうの以上に秀頼さまの身の安全を心配して嫌がったのですが、こんどは、加藤清正さまらが強く勧めました。そこで、占いなどさせ、「吉」と出たので、しぶしぶですが承諾しました。もっとも、本当は大凶だったのを片桐且元が占い師を脅して改めさせたともいいます。

大坂からは清正さまと浅野幸長さまが同行し、福島正則さまは当日になって腹痛を理由に同行を中止し、万一の時には大坂城を守る体制を取りました。

一行は船で伏見に向かいましたが、そこで、迎えた義直さま、頼宣さまという二人の家康さまのこどもたちには、清正らは臣下の礼をとらして日ごろの鬱憤を晴らしたといいます。

二条城での家康さまとの会見には北政所さまも同席しました。その席では対面して座りましたが、杯は家康さまが先に空けられました。いってみれば、どちらが臣下かということではありませんが、官位も上である家康さまが優先したということです。

秀頼さまは秀忠さまの娘婿なのですから、秀忠さまぬきで、家康さまが会われるというのはおかしなことなのですが、秀忠さまですと秀頼さまより官位が下なのであえて避けたのでしょう。

秀頼さまの態度は、卑屈にはならないようにしながら、年長の家康さまを無理なくたてられ、まことに見事なものだったそうです。

会談はたんたんと行われ、ころ合いを見計らって、茶々が大坂で待っているのでということで秀頼さまが席を立って終わりました。

加藤清正像(原本京都府勧持院所蔵の複製画/Wikipedia)

清正らは無事に会談が済んで大満足でしたが、この会談は完全な失敗でした。当時の記録には、「家康は秀頼が女に囲まれて育ち嬰児のこごきと聞いていたが立派に育っているのを見て喜んだ」とか「賢き人だ。人の下知など受けまい」といったとかいう発言が紹介されていますが、要するに、家康さまは秀頼さまをいかにも扱いにくい若者だと見て取られたのです。

それは、普通の意味で優れた人物だと思われたのではありません。ただ、なんとなくカリスマ性があるのと、人の下にあって我慢する、あるいは、上手に諂いながら立ち回るようなタイプではないということなのです。

ここでもし、秀頼さまがバカ殿のようだったり、処世術巧みに家康さまを持ち上げたのならよかったのですが、これで家康さまは不安になりました。

わたくしは家康さまが、秀頼さまが普通の一大名のようにふるまうまでただちに期待されたのではないと思います。ただ、徳川の客分のような立場で満足してくれればよかったのではないでしょうか。ちょうど、京極家と浅井家の関係のようなものです。

しかし、そういう人物ではなさそうだ。また、諸大名が秀頼さまに会えば、やはりさすがは天下人だと思うだろうというのが怖かったのです。

また、秀頼さまに、そのあたりも含めて政治的にどうふるまうべきか、アドバイスできる人がいなかったということです。

しかも、このとき、京都の市民は秀頼さまの行列を一目見ようと都大路に出てきて歓迎しました。この根強い豊臣人気も家康さまをいっそう不安にさせたのです。わたくしは「豊臣滅亡すべし」と家康さまはこのときに決意されたのだと思います。

大坂城に頼宣さま、義直さまを引き連れて無事に帰ってきた秀頼さまを見て、茶々も清正さま、正則さま、幸長さまらは大満足でした。これで豊臣家も安泰と思ったのでしょう。

しかし、信雄さま、信包さま、長益さまら織田家の人たちは、さすがに織田家自身の運命を見ていますから、危ないという意識を持たれたのでないでしょうか。

このあと、清正さまは肥後に帰国しますが、船中で発病し、四月には熊本城で亡くなられます。あまりにものタイミングの良さにさまざまな憶測がされるところです。

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