森喜朗元総理が、自身の軽率な発言の責任を取り、評議員と理事による合同懇談会臨時会合の場で東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の辞任を表明した。同情しないし、辞任は不可避だったとも考えている。とはいえ、多少の違和感も否めないのだ。
池田信夫氏のこの記事森喜朗氏の「女性蔑視発言」はフェイクニュースであるを読んで、森氏の発言内容のすべてを知ることができた。発言のレジュメを記すなら、「女性蔑視」どころか、組織委員会の女性委員たちは皆優秀だ、と持ち上げたかったのが森氏の真意になる。では、なぜ伝わらないのか。伝わるような話し方をしていないからだ。
賢い人は、誤謬を避けるため、まず結論を述べて、そう考える理由を並べるのだが、森氏の場合はまったく逆。長く、不必要・不用意な前奏の後に非常にわかりにくい言い回しで結論を述べている。
余計なおしゃべりの部分には「女性蔑視」と解されても致し方ない表現が確かにあり、日本社会の後進性を告発したくてたまらない国内メディア、日本を見下ろして皮肉りたい欧米メディアが多数存在する中、現職議員の頃から自分の言葉を的確に管理できなかった森氏のような人物を、絶えず内外に発信を求められる会長職につけたこと自体がそもそもの間違いだった、と指摘せざるを得ない。
森氏の辞任は日本の今後になんら影響しない。だが、森氏を辞任に追い込んだ世論形成のされ方に異様さを感じた方はきっとおられるだろう。記事の通り、ことの発端が毎日新聞なら、特段驚きはない。もともとそういうメディアだからだ。
森氏の発言を捏造にならない範囲で上手に編集して、日本を肯定する報道はほぼしない外国メディアにばら撒き、焚きつける。そうやっておいて、外圧的批判をつぎつぎ呼び寄せ、国内世論が燃え上がるのを眺めながら、してやったりと批評する。毎日新聞に限らずこういうやり方を平常運転にしているメディアは国内に複数存在する。
もっとも、これは昔からのことで、最近になって目立ってきた傾向という訳ではない。むしろ問題なのは受け手の側――一般市民の変質の方だ。どうも特定の事柄に対しある種の「正しさ」を基に直情的な反応を示す人々が増加しているように思えてならない。ポリコレ――ポリティカル・コレクトネスのことだ。幸い日本ではアメリカと違い実際社会を分断するところまで至っていないが、自分たちの信じる「正しさ」に反する意見はあらかじめ言わせない、という民間検閲官のような人々が幅を利かせ始めていることは、確かだという気がする。厄介なのは、なぜかそういう人々が例外なく自分たちをリベラルだと信じ込んでいる点だ。他者の発言の自由を奪うことほど、リベラルから遠いことはないはずなのにもかかわらず、だ。
リベラルを定義づけるうえで有名な文言がある。
私はあなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。
啓蒙思想家ヴォルテールの言葉として言論界に流布しているが、実はヴォルテールの著作にも、書簡にもこれに相当する記述はいっさいないらしい。しかし、この言葉を受容できるか、できないかほど、自らがリベラルなのか、そうでないのかを峻別するのにわかりやすい基準はほかにない。端的に表するなら、リベラルであるということは敵と生きる覚悟を持つことだ。たとえ正反対の意見を持つ相手にでもつねに自由で公正な言論の場を提供し、啓蒙はしても、糾弾はしない。論破はしても、圧殺はしないのだ。翻って、ポリコレ重視の人々はどうか。ほぼ対極の立ち位置にいる、と決めつけたら、反駁されるだろうか。
同調圧力の強い日本社会でポリコレの影響が今以上に顕在化した時、想像する未来の風景はこの上なく寒々しい。皆が、仮面をつけて、うわべを装う社会。それは単なる超管理社会にすぎないのではないか。そんな理想を本気で抱くのはかつての社会主義者――オールド左翼ぐらいのはずだ。
普通の人は漠然と知っている。人間性の中に仄暗い部分があることを。決して完全無欠の神のごとき個人が社会を構成することなどあり得ないことを。歴史を理性に導かれ弁証法的に発展する過程(ヘーゲル)と見做したがる人はおそらく人生のどこかで正気を失ったのだろう。
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清水 隆司
大学卒業後、フリーターを経て、フリーライター。政治・経済などを取材。