学ぶことにインセンティブがある社会を作る必要性 - 松本徹三

松本 徹三

岡田克敏さんの「足利事件の一側面」を面白く読みました。ここでは、「科学的思考の出来ない人が、科学技術の知識を要する判断を平気でやっている」ことの問題点を指摘しておられます。論理的、科学的な思考の出来ない人は、たまたま誰かが申し立てた「科学技術の知識らしいもの」を無批判に信じてしまう傾向があります。こういう人達は、「自ら考えて論理的に納得すること」をはじめから放棄しているのと、「一部の例証だけから原理を導くことは出来ない」という「科学の世界では当たり前のこと」を理解していないからです。


これは、明らかに諸外国よりも日本においてより多く見られる現象です。私は、その一因は、「文科系」と「理科系」を殊更に分けているかのような、現在の日本の教育制度にあるような気がします。また、会社などの組織体においても、お互いに「自分達の得意分野によそ者を入れたくない」といった「縄張り意識」が働いていることが多いのも、その原因の一つでしょう。最終決定をせねばならない「文科系」の経営者が、「うちの技術屋は難しいと言っている」とか、「あとは専門家に検討させる」とか、人ごとのように言うのもよく聞きますが、これは諸外国ではあまりないことです。

本来、ビジネスというものは、人が求めているものをタイムリーに供給することが基本です。従って、ここで成功するためには、「多くの人達の潜在ニーズを読み取る力」と、「それを満足させるものを安くつくる力」を併せ持つことが必要です。ざっくり言えば、前者は「マーケティング力」、後者は「技術力」と言ってもよいでしょうが、重要なことは、両者はいつも表裏一体だということです。理想的なのは、「人間に対する理解」と「技術に対する理解」が一人の人間の頭の中に並存していることで、それが時折相互にスパークすることです。ですから、人間を殊更に「文科系」と「理科系」に分けるが如きは、何とも愚かなことだといえます。

そうは言っても、人間には持って生まれた性向があることは事実です。従って、人間を「右脳優位型」と「左脳優位型」に分けることもあってよいでしょうし、「演繹的思考型」と「帰納的思考型」に分けることも可能でしょう。自分自身のことを考えてみると、高校生の時には数学と物理が得意だったにもかかわらず、また、その頃には、「理工系の大学を出れば食いはぐれがない」と言われていたにもかかわらず、私が理工系の大学に行かなかったのは、忍耐力を要する「実験」と「観察」が不得意なことを知っていたからだと思っています。つまり私自身は「演繹型」だったので、自ら技術屋にならなかったのは正解だったと思っていますが、だからといって「文科系」と決め付けられるのは、ずっと不愉快でした。

現実に、私は今でも先端技術の話は大好きですし、説明してくれる人が「一流の技術者」であれば、大体のことは理解できます。(わざわざ難解な言葉を並べ立てて人を煙に巻こうとするような「二流の技術者」の話は概ね理解出来ませんが、それは私が悪いのではなく、そういう説明しか出来ない人が悪いのです。)ですから、もし私自身が何らかの判断をせねばならない場合には、間違った技術的な話に騙されることはありません。分らなければ、分るまで「噛み砕いた説明」を求めればよいだけであり、それが出来ないのであれば、「そもそもその話自体がいい加減である」と判断すればよいからです。

ビジネスの世界では、「洞察力」や「判断力」はなくてはならないものですが、同時に「実行力」や「政治力」も必要です。本来は、これも車の両輪のごとく、常に並存していなければならないものですが、日本では、どちらかというと後者のほうが重視されがちです。特に政治家と官僚は、後者の方で評価されるケースが多く、それはそれでよいのですが、その分だけ前者が等閑にされがちであることが気になります。

そして、ビジネスの世界でも、政治家や官僚とのつながりが重視される局面が結構多いので、そのバランスがそのまま転移されているかのようにも思え、このことがそのまま「文科系」優位につながっているように感じられます。

日本では「営業」という一つの言葉で括られがちな「マーケティング・セールス」も、「マーケティング」の方には、「何が売れるか」「どうすれば売れるか」を冷静に分析し、判断する能力が求められるに対し、「セールス」の方には、「何が何でも売る」根性が求められ、本来は水と油ほど違うものです。これは全て「文科系」の世界と見做されていますが、日本では、どちらかというと「セールス」系の人の方が幅が利いているようです。「セールス」には、「政治」同様、「人当たりのよさ」「駆け引きの巧さ」「押しの強さ」などが求められるからかもしれません。

これが欧米ではどうなるかといえば、経済を担当する政治家や官僚には、当然経済学者並みの知識と能力が求められ、企業のトップには博士(PhD)級が数多く見られます。(元々技術者だった人が企業を起こし、経営の為に必要ということで、後からMBAを取るということもよくあります。)ともに知性のレベルが高く、少なくとも論理的、科学的な思考が出来ることがベースになっています。「文科系」とか「理科系」とかいうことは殆ど意識されていないように思いますが、「洞察力」と「判断力」が何よりも重視されていることは明らかです。

現在、日本では若い人達の「理科系離れ」が懸念されています。その原因の一つとしては、「理工系の学校で学べば、将来こんな面白いことが出来、こんな人生が送れるよ」という「魅力のあるストーリー」が語られていないこともあるでしょうが、それ以上に、学校を選ぶ段階で「将来の生き方」に対する確たる目標を持っている人が少なく、「まあ、何とかなるさ」という安易な考えの人が多いのが原因でしょう。「何とかなる」のなら、何も面倒くさい理工系を選ぶ必要はなく、遊ぶ時間がより多くありそうな「文科系」を選んだ方がよいからです。

「格差がないのが当たり前」という考えの強い日本と異なり、「放っておけば、格差がつくのは当たり前」と考えている欧米人や発展途上国の人達は、「自分の目標に合った教育」を求めることに貪欲です。そして、有能である人であればある程、一般に言われるような「文科系」に偏るのも、「理科系」に偏るのも、共に危険であることを知っていますから、自ら多方面に自分の能力を伸ばしていくことを考えています。

「日本をよりよい国、より競争力のある国にしていくにはどうすればよいか」を考えていくと、結局行き着く答は一つに収斂していくように思えます。それは「能力に対して厳しい目を持った社会」を作ること、「能力のない人がそれを必要とする地位にとどまることを許さない社会」を作ること、そして、「能力によって格差が生じ、その格差が『学ぶこと』に対するインセンティブを与えるような社会」を作ることだと思います。

そして、教育について言うなら、「文科系」「理科系」といった分け方は今後は出来るだけやめ、文科系の学生に対しては「科学技術の動向や、そのベースとなっている基本的な原則」を教える一方、理工系の学生にも「歴史」や「文学」、或いは「ビジネスの基礎」といった講座を用意することを考えるべきです。勿論、このような授業では学術的なアプローチは取らず、現実の世界と紐付いた実学的なアプローチを取るべきであり、学外から広く講師を招いて双方向のディスカッションを行い、学生達の興味を喚起していくべきです。

松本徹三

コメント

  1. a_inoue より:

     失礼ながら、松本さんは、俗説の批判的検討をする発想に欠けているようですね。

    >これは、明らかに諸外国よりも日本においてより多く見られる現象です。

     米国でも、DNA鑑定を裁判官および陪審員が信じてしまったことによる冤罪は大量に発掘され、再審無罪が言い渡されています。

    >現在、日本では若い人達の「理科系離れ」が懸念されています。

     「懸念されている」言説が存在することと、実際に「理科系離れ」があることとは別です。後者は、いつ、誰が調査、証明したのですか?

    >「格差がないのが当たり前」という考えの強い日本と異なり、「放っておけば、格差がつくのは当たり前」と考えている欧米人や発展途上国の人達は

     これも同様。「そういう俗説がある」だけであって、実際に考え方が違うかどうかは定かではない。単に松本さんが体験した個別事例を一般化さているだけです。

    >「自ら考えて論理的に納得すること」をはじめから放棄しているのと、「一部の例証だけから原理を導くことは出来ない」という「科学の世界では当たり前のこと」を理解していないからです。

     まさに、松本さんが実行なさってください。隗より始めよ、です。

  2. espr より:

    文系の教育を受けてきた私にはこんな文章しかかけませんっていいたいのかな??

  3. courante1 より:

    拙稿をご評価いただきまして、まことにありがとうございます。
    さらに発展させ、是正のための提案までされたことをうれしく思っております。とくに最後の、教育問題への言及には賛同します。具体的には、文系の入学試験科目の少なさなどもその理由のひとつだと思われます。

    a inoueさんのコメントですが、理系離れは学生数の変化にも現れています。とくに工学系の減少が問題になっています。理系出身者の生涯賃金の低さなども影響しているようです。また日英独仏のなかで社長が理系出身者である割合は明らかに低く、日本の特殊性を示しています。これらは橘木俊昭著「学歴格差の経済学」に統計データが出ています。

    米国ではDNA鑑定の結果、100人を超す冤罪が判明したそうですが、これは足利事件のように古いDNA鑑定が覆ったのではなく、新たにDNA鑑定をしたケースが多くあるのではないでしょうか。米国では証拠資料の保存が徹底していると聞きます。

    末梢部分の批判をされるのもよいと思いますが、主旨に対するものが何もないというのでは建設的ではありません。私はここに建設的な議論を期待しています。

  4. somuoyaji より:

    >一部の例証だけから原理を導くことは出来ない
    世界中の多くの経済学者がこれをやっていそう。それも数学を駆使している(ようにみえる)人たちが。日本では経済学や経営学は「文系」ですが、同じ「文系」の日本史では今、炭素の同位体による年代測定の成果の扱いで混迷しています。

  5. 松本徹三 より:

    a inoueさんのコメントについては「成程、そうかもしれない」と思うところはありました。特に「専門家と称する人のコメントを盲信して判断する」傾向は、日本人と欧米人の間に差があるとはいえないかもしれません。但し、「格差社会」というものについての意識については、やはり日本人が相当特異であるように思えます。検証されていないことはinoueさんご指摘の通りでしょうが、一度どこかで調査をかけてみれば面白いと思います。

  6. tsuyu34957tsuyu より:

    松本さんが仰る本稿の主旨とは、理系文系を二分して、自ら選ばなかった他方に対して、関心と責任を失い、必要が生じれば専門家と呼ばれる他人に丸投げする日本人の体質への憂い、だと私は理解しています。
    もし、知的レベルと社会的地位の両方が低い人間が、無責任の丸投げ体質であったとしても、社会が被る害悪の規模は大きくないはずです。しかし、知的レベルまたは社会的地位の一方もしくは両方が高い人間がそうだとしたら、害悪の規模は計り知れません。
    問題は、現実に高度な教育と難関試験を突破した日本の指導者層・支配者層でさえも、そのような丸投げ体質に染まってしまっていることでしょう。専門家がAと言っているのだから、Bの疑いが拭いきれないけれども、Aにしておこう。といった責任放棄ないし迎合主義とでもいう行為がまかり通ることが日本の問題点なのでしょう。せめて人権保障の最後の砦である裁判官くらいは、判決に至る全ての過程に関心と責任を持って欲しいと願います。

  7. 海馬1/2 より:

    足利事件での裁判官は、DNA鑑定の証拠能力と判定結果を前提として、判断したので、専門家と門外漢の問題とは別次元だとおもいますが?それこそ「司法」でだと思います。
     再審請求を却下した裁判官はアホですがw

    「格差社会」についても、問題無いと思いますよ。
    ホリエモンや村上がお手本を見せたじゃないですか。
     また、就職氷河期世代以降は、「正社員」がカーストとしてちゃんと認識できてますってw
    『働いたら負け』ってことです。客で入る限り勝ち(金さえあれば)ってことです。

  8. 海馬1/2 より:

     日本社会の文系支配で思い出したんですが、
    野依良治 氏が、ノーベル賞をとったとき、
    マスコミインタビューで、「玄関先で講義」をなさったのに、
    それをまともに放送するtv局 ニュース番組が、
    なかったと記憶している。
     もったいないことだ。
    たぶん、カンパケのソースも残っていないんだろうなw

  9. a_inoue より:

    >米国ではDNA鑑定の結果、100人を超す冤罪が判明したそうですが、これは足利事件のように古いDNA鑑定が覆ったのではなく、新たにDNA鑑定をしたケースが多くあるのではないでしょうか。

    http://www.thefreelibrary.com/DNA+evidence+in+criminal+law:+new+developments-a015747130

     判決の根拠となったDNA鑑定に後から疑問がついたケースです。死刑囚は処刑されてしまいました。

  10. 海馬1/2 より:

    自閉症スペクトラム・サバン症系の『天才』が
    大学とか研究所に進学しにくい受験制度は問題ではないのか?w

  11. 海馬1/2 より:

     景気や産業構造の変化で、職業系の高校が、
    進学脱落者収容所状態になる件について
    はどうお考えなのでしょうか?w

     バブルのころは、これにアニメ・コンピュータ学校がニート収容施設だったが、こう景気が悪くては、高校でさえ収容できなくなってるようですが?(もっとも、そのお陰でか職業系高校の再生もできてるようですねw)

  12. disequilibrium より:

    日本の教育は、思考しないロボットのような人間を量産することに特化しているので、それを180度転換して、広い視野を持って思考する人間を育成することを目的化するのは無理があるように思います。

    そのような大転換をするには、教育を根本的に変える必要があるし、それは社会システムや、階級や権力構造にも波及します。
    抵抗勢力の強い日本でそれはできないので、結果的に中途半端な教育制度になり、中途半端な人間ばかり生み出すことになると思います。

    それよりも、教育制度の”外”でどうにかすることの方が簡単というか、それが本来のやり方なんじゃないでしょうかね。

    もっとも、私はロボットのような人間を量産することを悪と言っているのではなく、それはそれで価値があるし、それが日本の強みだと思います。

  13. formfollowsfunction より:

    「こういう人達は、「自ら考えて論理的に納得すること」をはじめから放棄している」、「これは、明らかに諸外国よりも日本においてより多く見られる現象です。」について、諸外国が欧米であることを付け加えた上で同意見です。この分け方(放棄する/しない)で、仮に同年代を分類したら、「(自ら考えて論理的に物事を納得して)第一線で活躍する人」と「(自ら考えて論理的に物事を納得しようとしたものの、それができずに)ドロップアウトした人」は同じ類型(放棄しない)に分類されるのではないでしょうか。現在は一般的に「(放棄しない)ドロップアウトした人」と「(放棄する/しないに関わらず)それ以外の人」といった「成績」によって大きく分類しています。この分類の違い(価値観)が、(松本氏が意見されるような事象を含めた)後々の問題を生む原因になっていると考えています。

  14. formfollowsfunction より:

    「教育について言うなら、「文化系」「理科系」といった分け方は今後は出来るだけやめ~」と意見されています。私は、生きている間に学び終えることも、学ばずに生きることも、「無理」なことだと理解しています。そのため、両極の「無理」の間である「如何にして学ぶのか/学び続けるのかといった問題」に「理」を見出すべきだと理解しています。学ぶ/学び続けるにあたり、専門的な知識の視野の問題の前には、基本的な知識の問題を解決しておく必要があります。先日のアゴラ「『ものつくり敗戦』について」では、「数学を大学で必須科目に」といった内容を池田氏は引用していました。また先日のNHKのクローズアップ現代「10歳の壁(小学4年-算数理解の壁)」では、算数は「操作」と「量」に分けられ、「操作」と「量」の関係や「量」そのものを理解する上で、小学4年以降は「抽象観念」が必要になるが、「抽象観念」を理解するための「言語能力」の不足が、理解の障壁(10歳の壁)になっている、と佐藤学氏は述べていました。解決のヒントは「算数・数学」「抽象観念」「言語能力」にあるのかもしれません。いずれも基本的な知識の問題です。

  15. formfollowsfunction より:

    私は自他に対する経験から、「抽象観念」を本質的に理解するためには、基本的な「集合(算数・数学)」の理解が必要であり、そして「集合」を理解するためには「言語技術(言語能力)」が必要であると理解しています。「抽象観念」を効果的に分けて分かる(分類する)ためには「集合(要素の分類)」の理解が必要になり、分類の際には「言語技術」が必要になるからです。云うまでもなく「抽象観念」は思考対象です。「集合」は算数・数学で学びます。「言語技術」については、欧米では小学校では学びはじめていますが、日本では大学でも(偏差値・文理に関わらず)学ばない場合が多い(基礎力であるという理解が一般化に至っていない)のが実状です。

  16. formfollowsfunction より:

    「言語技術」の理解は大学や社会人になってからでも手遅れではありませんが、欧米のように幼少期から始めることが望ましいと考えています。学んだ知識を知性に変えるのは「言語技術」であり、分からないこと(知識)でも粘り強く学ぼう(本質的に理解しよう/知性に変えよう)とする(「自ら考えて論理的に納得すること」を放棄しない)ための「動機」であると考えているからです。「ゆとり教育」の実践と見直し、「小学英語」の必修化が話題になることが多いですが、先ず見直すべきことは「言語技術」の教育の在り方ついてだと考えています。「(自ら考えて論理的に物事を納得して)第一線で活躍する人」はこの「言語技術」を何らかの方法で習得しています。松本氏が意見する「格差が『学ぶこと』に対するインセンティブを与えるような社会」については、類型「放棄しない」の中の「ドロップアウトした人」を支援する(言語技術の教育をベースにした学びへの動機付けやインセンティブを与える)仕組みの確立に国がトップダウンで取り組み、企業ならびに教育・研究機関が各々考えたボトムアップの取り組みに期待するのが現実的な解ではないかと考えています。

  17. formfollowsfunction より:

    私のパートナーからNo.13について分かりづらいと指摘を受けたので補足します。何度もすみません。

    松本氏は論考の中で、新しい価値基準(日本をよりよい国に~の箇所)の社会を作るべきだと意見されています。
    私はその意見に同感で、私なりの意見を書きました。

    意見の骨子は、現状に対して「新しい価値基準」を適用した際に、合う層/合わない層を分類し、どこを支援すべきかという内容です。
    「新しい価値基準」は学ぶ/学び続ける上で必要になる基本的な力の習得にウェイトを置くと仮定します。

    現状を3層に分類しました。

    a.第一線で活躍する層・・・自ら考えて論理的に物事を納得しようとし、かつ、それを成し得た層

    b.a-bの間の層・・・自ら考えて論理的に物事を納得することは放棄したものの成績は(現状の価値)基準以上の層

    c.ドロップアウトした層・・・自ら考えて論理的に物事を納得しようとしたものの、それを達成できなかった層

    結論、a層の予備軍であるc層を支援すべき。
    a層は基本的な力の習得については支援は不要(主旨とは異なるがより能力が伸びる環境を支援)。現在の価値基準ではb層は価値基準に対する日和見層なので、新しい価値基準におけるc層(ドロップアウト)の予備軍(c層の支援で対応)。

  18. formfollowsfunction より:

    何度もすみません。

    × b.a-bの間の層
    ○ b.a-cの間の層