学ぶことにインセンティブがある社会を作る必要性 - 松本徹三

2009年06月20日 02:28

岡田克敏さんの「足利事件の一側面」を面白く読みました。ここでは、「科学的思考の出来ない人が、科学技術の知識を要する判断を平気でやっている」ことの問題点を指摘しておられます。論理的、科学的な思考の出来ない人は、たまたま誰かが申し立てた「科学技術の知識らしいもの」を無批判に信じてしまう傾向があります。こういう人達は、「自ら考えて論理的に納得すること」をはじめから放棄しているのと、「一部の例証だけから原理を導くことは出来ない」という「科学の世界では当たり前のこと」を理解していないからです。


これは、明らかに諸外国よりも日本においてより多く見られる現象です。私は、その一因は、「文科系」と「理科系」を殊更に分けているかのような、現在の日本の教育制度にあるような気がします。また、会社などの組織体においても、お互いに「自分達の得意分野によそ者を入れたくない」といった「縄張り意識」が働いていることが多いのも、その原因の一つでしょう。最終決定をせねばならない「文科系」の経営者が、「うちの技術屋は難しいと言っている」とか、「あとは専門家に検討させる」とか、人ごとのように言うのもよく聞きますが、これは諸外国ではあまりないことです。

本来、ビジネスというものは、人が求めているものをタイムリーに供給することが基本です。従って、ここで成功するためには、「多くの人達の潜在ニーズを読み取る力」と、「それを満足させるものを安くつくる力」を併せ持つことが必要です。ざっくり言えば、前者は「マーケティング力」、後者は「技術力」と言ってもよいでしょうが、重要なことは、両者はいつも表裏一体だということです。理想的なのは、「人間に対する理解」と「技術に対する理解」が一人の人間の頭の中に並存していることで、それが時折相互にスパークすることです。ですから、人間を殊更に「文科系」と「理科系」に分けるが如きは、何とも愚かなことだといえます。

そうは言っても、人間には持って生まれた性向があることは事実です。従って、人間を「右脳優位型」と「左脳優位型」に分けることもあってよいでしょうし、「演繹的思考型」と「帰納的思考型」に分けることも可能でしょう。自分自身のことを考えてみると、高校生の時には数学と物理が得意だったにもかかわらず、また、その頃には、「理工系の大学を出れば食いはぐれがない」と言われていたにもかかわらず、私が理工系の大学に行かなかったのは、忍耐力を要する「実験」と「観察」が不得意なことを知っていたからだと思っています。つまり私自身は「演繹型」だったので、自ら技術屋にならなかったのは正解だったと思っていますが、だからといって「文科系」と決め付けられるのは、ずっと不愉快でした。

現実に、私は今でも先端技術の話は大好きですし、説明してくれる人が「一流の技術者」であれば、大体のことは理解できます。(わざわざ難解な言葉を並べ立てて人を煙に巻こうとするような「二流の技術者」の話は概ね理解出来ませんが、それは私が悪いのではなく、そういう説明しか出来ない人が悪いのです。)ですから、もし私自身が何らかの判断をせねばならない場合には、間違った技術的な話に騙されることはありません。分らなければ、分るまで「噛み砕いた説明」を求めればよいだけであり、それが出来ないのであれば、「そもそもその話自体がいい加減である」と判断すればよいからです。

ビジネスの世界では、「洞察力」や「判断力」はなくてはならないものですが、同時に「実行力」や「政治力」も必要です。本来は、これも車の両輪のごとく、常に並存していなければならないものですが、日本では、どちらかというと後者のほうが重視されがちです。特に政治家と官僚は、後者の方で評価されるケースが多く、それはそれでよいのですが、その分だけ前者が等閑にされがちであることが気になります。

そして、ビジネスの世界でも、政治家や官僚とのつながりが重視される局面が結構多いので、そのバランスがそのまま転移されているかのようにも思え、このことがそのまま「文科系」優位につながっているように感じられます。

日本では「営業」という一つの言葉で括られがちな「マーケティング・セールス」も、「マーケティング」の方には、「何が売れるか」「どうすれば売れるか」を冷静に分析し、判断する能力が求められるに対し、「セールス」の方には、「何が何でも売る」根性が求められ、本来は水と油ほど違うものです。これは全て「文科系」の世界と見做されていますが、日本では、どちらかというと「セールス」系の人の方が幅が利いているようです。「セールス」には、「政治」同様、「人当たりのよさ」「駆け引きの巧さ」「押しの強さ」などが求められるからかもしれません。

これが欧米ではどうなるかといえば、経済を担当する政治家や官僚には、当然経済学者並みの知識と能力が求められ、企業のトップには博士(PhD)級が数多く見られます。(元々技術者だった人が企業を起こし、経営の為に必要ということで、後からMBAを取るということもよくあります。)ともに知性のレベルが高く、少なくとも論理的、科学的な思考が出来ることがベースになっています。「文科系」とか「理科系」とかいうことは殆ど意識されていないように思いますが、「洞察力」と「判断力」が何よりも重視されていることは明らかです。

現在、日本では若い人達の「理科系離れ」が懸念されています。その原因の一つとしては、「理工系の学校で学べば、将来こんな面白いことが出来、こんな人生が送れるよ」という「魅力のあるストーリー」が語られていないこともあるでしょうが、それ以上に、学校を選ぶ段階で「将来の生き方」に対する確たる目標を持っている人が少なく、「まあ、何とかなるさ」という安易な考えの人が多いのが原因でしょう。「何とかなる」のなら、何も面倒くさい理工系を選ぶ必要はなく、遊ぶ時間がより多くありそうな「文科系」を選んだ方がよいからです。

「格差がないのが当たり前」という考えの強い日本と異なり、「放っておけば、格差がつくのは当たり前」と考えている欧米人や発展途上国の人達は、「自分の目標に合った教育」を求めることに貪欲です。そして、有能である人であればある程、一般に言われるような「文科系」に偏るのも、「理科系」に偏るのも、共に危険であることを知っていますから、自ら多方面に自分の能力を伸ばしていくことを考えています。

「日本をよりよい国、より競争力のある国にしていくにはどうすればよいか」を考えていくと、結局行き着く答は一つに収斂していくように思えます。それは「能力に対して厳しい目を持った社会」を作ること、「能力のない人がそれを必要とする地位にとどまることを許さない社会」を作ること、そして、「能力によって格差が生じ、その格差が『学ぶこと』に対するインセンティブを与えるような社会」を作ることだと思います。

そして、教育について言うなら、「文科系」「理科系」といった分け方は今後は出来るだけやめ、文科系の学生に対しては「科学技術の動向や、そのベースとなっている基本的な原則」を教える一方、理工系の学生にも「歴史」や「文学」、或いは「ビジネスの基礎」といった講座を用意することを考えるべきです。勿論、このような授業では学術的なアプローチは取らず、現実の世界と紐付いた実学的なアプローチを取るべきであり、学外から広く講師を招いて双方向のディスカッションを行い、学生達の興味を喚起していくべきです。

松本徹三

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