アカデミズムという俗世間 - 『完全なる証明』

2009年11月15日 00:00

★★★☆☆ (評者)池田信夫

完全なる証明完全なる証明
著者:マーシャ・ガッセン
販売元:文藝春秋
発売日:2009-11-12
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大学というのは、世間では学問に専念する純粋な人々の集まる世界と思われているかもしれないが、実際にはきわめて俗っぽい世界だ。日本の大学は、准教授になった段階で事実上のテニュア(終身雇用)がえられ、授業さえこなしていれば何もしなくてもいいので、ほとんどの研究者はその段階で研究をしなくなる。これに対して欧米諸国、特にアメリカの一流大学の研究者の競争は激烈だ。教授になってもテニュアは簡単に取れず、業績が上がらないと他の大学へ転出するよう圧力をかけられる。国際学会の権威ある査読つき論文以外は、業績とはみなされない。

ところが2002年に、arXivというコーネル大学のウェブサイトにディスカッション・ペーパーが投稿された。著者はグリーシャ・ペレルマンという、どこの大学にも所属していない無名のロシアの数学者だが、これが数学界の100年越しの難問「ポアンカレ予想」を証明したといわれ、大きな波紋を呼んだ。世界中の数学者が2年近く査読してチェックした結果、この証明が正しいことが確認され、ペレルマンは数学界で最高の名誉、フィールズ賞を授与されることが決まった。ところが彼は受賞を拒否し、多くの有名大学からのポストの提示も蹴って、姿を消してしまい、今も行方不明である。

本書は、ペレルマンの生い立ちやソ連の数学界の状況を含めて、アカデミズムがいかに政治的な世界であるかを描くルポルタージュである。肝腎のポアンカレ予想についてはほとんど説明されていないが、どうせ説明してもほとんどの人には理解できないだろう。興味あるのは、ソ連時代の数学者がスターリンや社会主義官僚によって粛清されたひどい状況だ。おかげでロシアの数学界は世界から大きく立ち後れ、いまだに立ち直れない。

ペレルマンがなぜ受賞を拒否したのかは謎だが、多くの関係者が指摘するのは、数学界のボス、丘成桐(ヤウ・シントゥン)の政治工作である。ハーバード大学教授であるヤウは、中国政府に国立の数学研究所をつくらせ、中国数学会の学会誌を創刊して編集長になり、そこに自分の弟子がペレルマンの証明を丸写しした論文を(査読も飛ばして)「ポアンカレ予想の最初の証明」と題して載せ、フィールズ賞を共同受賞させようと画策したのだ。ペレルマンのような天才にとっては、アカデミズムの俗悪さが耐えられなかったのだろう。

こういう激しい競争とどぎつい学問政治の横行する世界の学界に比べれば、ボスが仕切って猿山のような秩序ができている日本の学界のほうが、のんびりしていて楽だが、こういう環境からは学問的な成果は出ない。理科系はまだいいほうで、経済学では世界の上位1000人に6人しか入っていない。日本が、学問の世界でも中国に追い越されるのは時間の問題だろう。

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池田 信夫
アゴラ研究所所長 SBI大学院大学客員教授 学術博士(慶應義塾大学)

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