死者に優しく、弱者に厳しい日本-『日本軍と日本兵』

站谷 幸一


2011年春、東北の被災地に行ってきたことがある。
GW後ならば、私のような非力な人間でも需要があるだろうと思い、友人のプロジェクトに参加させてもらう形で、規制線内に物資などの支援に行ってきた。


語弊があるかもしれないが、そこで見たのは、死者に優しく、弱者に厳しい世界だった。自衛隊員が絶望的な表情で、膨大な人力と重機で遺体捜索する一方、道路が寸断された向こう側では、眼鏡、スリッパ、毛布、サインボール等が散乱する海岸近くの砂地で被災者たちがテント生活を送り(公共施設からはみ出る形)、そこには水道もガスもトイレもなく、風呂はサウナ、電気は発電機で若干しかない状態だった。他方、上空では、海自のヘリがしきりに遺体捜索で飛んでいた。

元自衛官の友人は、「自衛隊は遺体捜索より、さっさと道路等のインフラを修復し、被災者の生活再建と向上に注力するべき」ではないかと呟いたが、私も同感だった。既に亡くなった方よりも、今苦しんでいる、それも自衛隊にしか出来ない方法で生きている被災者を救うべきではないかと。
かくも今の日本は、死者に優しく、弱者に厳しい。

本書が提示するのは、旧日本陸軍の「死者に優しく、弱者に厳しい」同様の姿である。著者は、これまでにも米軍の大戦中の対日戦マニュアル等から、「合理的な判断」として無謀な作戦や非対称戦争をせざるを得なかった様子を論じてきた一ノ瀬氏である。著者は、本書において、米陸軍情報部の報告書等を手掛かりに、米兵の見た日本兵の実態を論じており、

「銃剣と射撃が下手な日本兵」
「日本軍はハッタリを重視している」
「準備された防御態勢下では死ぬまで勇敢に戦うが、予想外の事態にはパニックになり叫び、逃げる」
「将兵は同じ食事を食べ、飲酒によって団結し、行き詰ると「ヤルゾー!」「チキショー!」と叫んで一体感を保つ」

といった現在に通じる姿や戦術における『合理性』が狂気に歪んでいく様子が活写されている。

特に、目を引くのは、捕虜となった米軍軍曹が目撃した日本軍の死者への丁重な扱いである。

ある兵士が戦死すると中隊で儀式としての火葬を行う。大きな穴を掘り、木を詰める。その上に遺体を置いてさらに木を加え、ガソリンをかける。

中隊全員が礼装で整列し、隊長が演説する。彼は遺体にあたかも生きているかのように話しかける。彼がいかに偉大だったか、兵が自ら死地に飛び込むことがいかに素晴らしいかを語り、死者を昇進させる。隊長が頭を下げ、中隊は着剣して「控え銃」の姿勢を取る。隊長がたいまつを薪に投じ、兵は火の側へ歩んで頭を下げ、焼香する。

燃え残った骨を小さな木箱に入れ、真っ白な布で包み、兵が最寄りの司令部まで持っていく。将軍からその部下に至るまで全員が敬礼をしなくてはならない。箱は両親の元に送られる。

残った灰は美しい小山に集められて埋められる。その上に兵の氏名、階級、認識番号、死に様を短く書きこんだ角材が据えられる。墓は美しく整えられ、餅、ビール、果物、タバコ、米、水が供えられる

また、その他にも、「日本軍は義務を果たした味方兵士の遺体収集に万難を排して実施していた」とする米軍の報告書を引用し、日本軍の死者への丁重かつ思いやりのある姿勢が伝わってくる。

しかし、負傷者や生者には一転して厳しい態度を取るのである。

「日本軍は死者には丁重だが、急いでいる時には傷病者をおきざりにする」
「傷病者が引き金を引ける時には自決を求められる」
「ガダルカナルでは、負傷者の80%が不適切な治療、医療材料の不足、後送する意志と能力の欠如により死亡したと見られる」
「ガダルカナルでは、野戦病院を作れず、敷物か地面に寝かせ、ときにわずかなヤシの葉ぶきの小屋を与えるというものだった。野外診療室の衛生状態はひどく、糞尿まみれだった。薬の供給は激減し、食塩水の代わりにココナッツミルクが注射されたこともあった」
「ささいな訴えは軍医の注意をひかない。不平を言う兵士は怠け者呼ばわりされて、仲間外れにされる」
「ささいな病気は兵士が自分で治療することが求められ、これが性病と結核の蔓延となっている」
「患者は軍事作戦の妨げとしか見なされないし、治療を施せばやがて再起し戦えるという事実にもかかわらず、何の考慮もされない」
「日本軍は対戦車人間地雷を投入した」

こうした死者に優しく、弱者に厳しい姿に筆者は、現代社会に通じるものがあるのではないかと投げかける。
私も同様であり、そのカリカチュアを311後の被災地とそれを取り巻く日本社会に見てしまう。

合理的に考えれば、死者は冷たい言い方をすればサンクコストである。取り返しのつかないものである。しかし、傷ついた生者は再起できるのである。実際、本書では「ガダルカナルでは、日本軍の健康状態が整っていれば、連合軍の絶対的な海上優勢にもかかわらず米軍は飛行場を失っていたかもしれない」との米陸軍情報部のコメントを紹介している。

道義的に考えても、死者は悼むべきだが、所詮は過去でしかない。それよりも今生きている、そして困難に直面している人間を優先すべきなのは間違いない。それが子供等の弱者であればなおさらである。

であるならば、冒頭の話に戻るが、遺体捜索より、生活困難の被災者の為の道路構築や支援を最優先すべきだったのは間違いない。

靖国神社の問題も同様だ。安倍首相は、昨日の共同記者会見で、横で憮然とするオバマ大統領もなんのその、わざわざ最後に靖国神社について無意味な長広舌を奮った。(無難にかわせばいいだけにもかかわらず)
今の日本国民の生命と生活を守る日米同盟を歪めてでも、過去の死者を独特の方法で弔いたいのが今の総理らしい。

しかし、繰り返しになるが、孫の教育資金や安全を切り崩してでも、祖父の墓の整備を優先させるのが、正しいことなのだろうか。また、爆弾を抱えて戦車に突撃させられた兵士を称揚するより、二度とそうさせない強力な抑止力と戦闘力の確保に専念する方が大事ではないだろうか。

総理の靖国に対する姿勢は、死者に優しく、弱者に厳しい組織文化の象徴であるが、そろそろこうした文化から私たちは脱すべき時ではないだろうか。
死ねば優しくされるが、生きている間は苦行という社会では、あまりにさみしすぎると思う。

站谷幸一(2014年4月25日)

twitter再開してみました(@sekigahara1958)

付記
安倍首相の今日の「靖国参拝について理解をもとめる」発言がいかに愚劣であるかは、東田剛氏ですら同意した、過去の拙稿をご参照いただければ幸いです。
また、上記の引用は短くするため、わかりやすくするため、短縮なりしておりますので、ご興味をもたれた方は、ぜひ原著もご覧いただければと存じます。