歴史教育のあり方 - 松本徹三

松本 徹三

Twitterで歴史教育のことに少し触れたら、色々な方からご意見を頂きましたが、その中には、「特に現代史が重要であるにもかかわらず、殆どの場合は年度末の時間切れで『現代』にまで授業が進むことがない。これは何とかしなければならない」という趣旨のものが、数多くありました。中にお一人、「歴史の授業は、古代から始めるのではなく、現代から遡っていくのがよいのではないか」と言われた方がおられ、私も同じような事を考えたことがあったので、少し驚きました。


私は、今の中学、高校のカリキュラムがどういうことになっているのか全く分かっておらず、従ってまともな提言は何も出来ない状態ですが、「歴史」は「何が正しく、何が誤った決定だったか」を判断するのに大変役に立つにもかかわらず、現在の「歴史教育」は殆どそのような役には立っておらず、とても残念に思っています。

何時でしたか、高校で「世界史」の授業が意図的に放棄されているという事実が判明し、大きな議論になったことがありますが、これが「歴史教育」の重要性を見直す議論に繋がって、何か抜本的な改革が行われたという話は、その後全く耳にしていません。中・高校生や、父兄、更には学校側にとっても、最大の関心事は常に「受験に役立つかどうか」に集中している現状では、これも止むを得ないことなのかもしれません。

教育の問題は、結局は、今の受験制度が抜本的に変わらない限り、何を言っても空しい結果になります。今の受験制度の根幹は、究極的には、「一流の会社や公共機関に入って、その中で偉くなりたい」という多くの人達の漠然たる願望が帰結したものであるように思えるので、「経団連に加盟しているような一流企業のリーダーが、採用基準や社内での人事制度を一変させれば、教育界全体に対する大きなメッセージになり得る(それなのにそれをしていないのは怠慢である)」というのが私の持論です。しかし、こういう考えに反対する人達も多いでしょう。

私が若かった頃には、左翼思想が優勢で、多くの企業が左翼的な思想を持った若者達を何とかして入社させまいと考えているかのようでした。従って、理工系や体育会系は好感をもって迎えられましたが、経済学(当時はマルクス経済学が優勢でした)、政治学、社会学などをよく勉強した学生は、忌避されることも多かったようです。ですから、その反動で、現在でもなお、「大企業が教育のあり方に対して影響を与える」等という考え自体に、警戒心を持つ人達が多くても不思議ではありません。また一方では、「教育というものを実利だけから考えるのか」と言って反発する人達も、当然おられるでしょう。

しかし、その事はさておき、一番残念なことは、「歴史」や「社会」に関連する問題になると、今でも考え方が左右両翼に大きく偏った人達が相当いて、この人達が熱心に議論を主導するので、結果として対立が先鋭化する傾向があることです。「靖国」や「教科書」の問題でよく見られるように、両サイドの人達は決して自分の考えを変えず、死ぬまでお互いを感情的に非難しあうでしょう。

戦前の「修身」に対するノスタルジアと一体化した「道徳教育」論者のように、「歴史教育」と言えば、これを「愛国教育」であると考えて、勇み立つ人達が必ずいます。その一方で、一昔前の「唯物史観」に馴染んだ人達は、これを「平和教育」であると言い換えて、これまた勇み立つかもしれません。双方とも古色蒼然たる考えの持ち主のように思えますが、その勢力は今尚かなり残っているようです。

(本来、「愛国」と「過去の過ちに対する反省」は、何ら矛盾するものではありません。また、「平和」と「唯物史観」は何の関係もありません。「愛国」と「平和」は矛盾せず、勿論どちらも重要なことです。にもかかわらず、これが対立する両極のそれぞれのキャッチフレーズになっているのは、悲しい現実であると言うしかありません。)

「首相が公人として靖国を参拝することの是非」という問題になれば、賛否は別として、首相自身が決めればよいことですから、話は簡単です。「教科書」も、いずれ結論は出さねばならぬことであるし、「足して二で割る」様な結論でもよいのなら、結論を出すこと自体はさして難しいことではないでしょう。しかし、現場で実際にそれをどのように教えるかということになると、これは極めて難しい問題になります。

教師が情熱をもって教えなければ、良い授業にはなりませんが、どちらの方向であっても、本当に情熱を持って教えると、色々な批判が出てくることは必定のような気がします。場合によれば、生徒達の間でも、予期しなかったような深刻ないがみ合いが生じる恐れすらあります。だからこそ、現状は、「触らぬ神に祟りなし。面倒な問題には敢えて踏み込まない」ということで済まされているのでしょう。しかし、それで本当によいのでしょうか? 

私は、全ての教科について、「今の教え方でよい」とは決して思っておりません。しかし、答えが一つしかない理数系の勉強のあり方については、今後とも特に難しい議論はないでしょうし、国語や外国語の授業も、特に大きな議論をせずとも、改革することは可能でしょう。現在の日本の法制の仕組み等を教えることも、通り一遍のことを知識として教えるだけなら、何も難しい問題はないでしょう。

しかし、「因果関係の分析」や「判断の妥当性の検証」をしなければならない「歴史」の授業のあり方を決めるのは、そう簡単ではないと思っています。恐らく議論が百出し、なかなか結論は出ないでしょう。だからと言って、若い人がこれからの人生を生きていくのに最も必要な「判断力」を養う為の重要な場を与える「歴史」の授業を、等閑にしてよいという事にはなりません。

「歴史」の勉強は、「人間とはどういうものか?」「人間社会とはどういうものか?」「国とは何か?」「国と国との関係とはどういうものか?」「戦争は何故起こるのか?」「どうすれば戦争は防げるのか?(防げたのか?)」「何が正義か?」「何が公平か?」「民主主義とは何か?」「人道主義とは何か?」「民族主義とは何か?」「何が人間に幸せをもたらすのか?」「色々な体制下で、それぞれの個人には何が出来るのか?」といった、幾つもの「根源的な問い」に対する答えを見つけ出すことを助け、最終的には、「今の自分は何をするべきか?」という最も重要な問題へのヒントを与えることにもなるのです。そんなにも重要な勉強を、どうして「英語」や「数学」の下に位置づけてよいのでしょうか?

冒頭にも申し上げたように、今の時点で、私にはまともな提言をする見識は全くありませんが、「どんなことに対しても、何らかの具体的な提案をしなければ意味がない」と考えるのは、もはや私の性癖になっているので、無理をして、下記のような一応の提言をしてみることにします。よろしくご批判ください。

1)「歴史教育」、特に「現代史」の教育を、国としての「重要課題」と位置づけ、その振興の為の諸施策を鋭意実行する。

2)「日本史」は二つに分け、中学では「古代」から「明治維新」までを教え、高校では「明治維新」から「現在」までを教える。

3)中学で教える「日本史」は、古代まで遡り、近隣諸国(中国、韓国/朝鮮を含む東アジア諸国)の歴史と関連付けながら教える。

4)「世界史」は高校で教える。但し、20世紀以降の現代史については、「日本の現代史」と分離せず、一体として扱う。

5)中学、高校を通じ、生徒達の興味を刺激する為に、世に出ている「映像(ドキュメンタリーや、ドラマ、アニメ)」を、積極的に参考教材に取り入れる。(但し、史実との違いはきちんと説明し、製作者の意図が偏っている場合は、必ず解説を入れる。)

6)中学、高校を通じ、「歴史上の事実」についての解釈や評価が分かれるところは、両論を併記し、異なった幾つもの見解について、分け隔てなく公平に説明する。

7)高校における「現代史」の授業においては、「ディベート」を導入する。即ち、自分自身の考えの如何に関わらず、くじ引きで当たった側の「見解」の妥当性を論理的に主張させ、相手方と議論して打ち勝つことを競い合わせる。

8)高校受験においては、「日本史」を必須科目とする。大学受験においては、「現代史」をテーマとした「小論文」を必須とする。

コメント

  1. http://www.hatena.ne.jp/nurse/ より:

    「歴史は科学である」とか「歴史は政治である」とかいった主張があります。「科学」だという主張は、人の歴史には法則性があり、その法則を見出すことが歴史の意義であるというものです。「政治」だという主張は、「歴史」というものは現代との相対で見るもので、政治的所作の産物であるというものです。
    という視点から松本さんの主張を見返すと、
    1)は今の状況に至る経緯が現代史にあるから重要であり、ゆえに重視すべきというものだと思いますが、政治的素材として知っておけという話ですよね。
    2)は現代史は難しいから後に持っていくという話なのでしょうが、全日制高校を前提にしているのが気になります。
    3)は日本を東洋史の観点から捉えるべきという話だと思いますが、近代以前で最もダイナミックだった古代はまともな資料に乏しいのがネックになり、かといって室町戦国時代になると民間主導かつ広範囲に渡るためこれはこれで教育素材としては偏るのが難点でしょうか。さらに倭寇の実情がどうだったかなどは今なお研究中の事柄が多く、現段階で「教科書」のレベルにまで落とせる事柄ではあまり深まらないのではないかな。
    4)は、世界史は義務教育にはいらないという話になるのですかね。おそらく根拠は「他人事だから」でしょうか。しかし、歴史は科学だという観点からすれば、他山の石なわけです。例えばローマ史におけるエトルリアと日本書紀だとか、世界の平安遷都類似例だとか、ノルマンコンクエストと元寇だとか、一見暗記科目に見える歴史にも法則性があるわけで、その法則を見出してこそ今に応用できるわけです。日本史だけでは例が少なすぎて法則を見出すのは難があるでしょう。

  2. http://www.hatena.ne.jp/nurse/ より:

    5)は異論ありません。
    6)はまさに政治的な所作ですよね。例えば日本史で炎上しやすい南京大虐殺でいえば、ゲリラ戦とはなにか、世界各地での虐殺の分類と特に「ジェノサイド」の定義、中国各地での虐殺例とその規模、当時の日本軍の置かれた立場と心理的状況などなど考慮していけばある程度の範囲に収まるはず、またはある程度の着地点が見いだせるはずで、検証なしに両論公平に併記というのは政治的所作以外の何者でもありません。歴史を通して何を教えたいんですか、双方の主張を垂れ流してお茶を濁すことですか、真実が何か見極める力ですか。
    7)は真実を見極める力を鍛える過程において、ディベートという手法を活用するという事ならばいいのではないかと思います。しかし、前提として歴史を論理的に語る力が必要とされるわけですが、それはどこで教えるんですか。詰め込めば出来るようになるようなものではありませんし、ましてやいきなり現代史をやってできるものではありませんよ。
    8)は、6)での疑問の繰り返しになりますが、受験で何を習得しているか見たいのですか。この主張は、「高校受験では日本人の教養として日本史を暗記していること。大学受験では世界史をネタに一席ぶてること」でしょうか。ちなみに、いわゆるエリート校では中学受験の時点で歴史的事実はどのような背景から起きたか説明させ、大学受験にもなると、ある産業の衰亡をそれを取り巻く世界情勢と関連付けて語らせたりしますね(この辺は旧帝大の世界史の過去問を見ればよいでしょう)。後者は大量に蓄えた知識の中から関連するものを漏らさず引っ張ってきて数百字の中に詰め込まないといけないのでかなり大変です。

  3. http://www.hatena.ne.jp/nurse/ より:

    結局のところ、「「歴史」の勉強は~「根源的な問い」に対する答えを見つけ出すことを助け~」という認識は共感するのですが、そこから先が歪んでいるように思うのです。歴史を学ぶというのはこれまでの人の営みを客観視し、そこから法則を見出すものだと思うのです。

    と、すれば、どの地域、どの時代をまず学ぶべきかは明らかですよね。客観視出来る地域、客観視出来る時代をまず学ぶべきじゃないですか。自分に関係がありすぎ、およそ客観視困難な地域時代は十分訓練を積んだあとで触れるべきでしょう。

    まとめると、「歴史は科学だが、現代史は政治である、あなたは何を学んでほしいのですか」。

  4. mizutakei より:

    松本さんの提言には基本的に賛成ですが、この水準を地理、公民にまで要求すると時間が足りないので(現状でさえ、全範囲を終わらせる公立校は稀)、
    中学生の時点で、社会科は授業も受験も「地理・国際」「歴史」「公民」の選択制にすべきでしょう。

    中途半端なら半端なりに役立つ他の教科と違って、社会科は中途半端に学ぶと一方的な考え方しかできなくなります。松本さんの問題意識もそこにあるのでしょうが、これは歴史に限らず、公民などにも言えることです。人権や安全、環境の絶対視による弊害はアゴラでも数多く取り上げられたことでしょう。

    無論全ての分野を教えることが理想ですが、それは時間的に無理なので、知識だけでなく思考力まで視野に入れるのであれば、最初から一分野に集中すべきです。こうすれば時間に余裕ができるので、(受験対策も含めて)色々なことができますし、先生も大学の専門に近いものだけでいいので教えるのが楽でしょう。他の分野の知識を犠牲にしても(小学校で最低限は習うはずですが)、やる価値はあると考えます。

    松本さんの問題意識や提言(5)(6)(7)は地理や公民にも当てはまりますし、(1)の「歴史認識」を「社会」または「地歴公民」として議論するとよりよいと考えます。

    水田圭一郎

  5. wishborn2400 より:

    大体においてよい提言だと思います。
    漫画や小説を取り入れるというのは、とても良いですね。
    批判的見方も養えることでしょう。
    しかし、ディベートについては、出来そこないの競技ディベートに
    なってしまう恐れがありますので、そのあたりを十分に考慮すべき
    だと思います。安易な相対主義に陥ってしまっても仕方ありません
    しね。