ハト・タカ派と「現実派」

松本 徹三

先回の記事で「サヨクと呼ばれる人たち」について、その特徴を考えてみたが、議論としては散漫なものにならざるを得なかった。考えてみれば、これは当然の事だ。ネトウヨとかサヨクとかいう呼称はよく使われてはいるものの、定義が特に定まっている訳でもなく、一括してそんな風に呼ばれるのは不本意だと感じる人たちも多い事だろう。


世の中にはまた「ハト派」「タカ派」という呼び方もあり、大体において日本では、左翼系はハト派、右翼系はタカ派と考えられている。しかし、これも極めて大雑把な話で、このような形で人間を一括りにするのは問題だ。そこで、今回は二分割ではなく、「お花畑派(空想的ハト派)」「現実的ハト派」「現実的タカ派」「ヤケクソ派(自己満足的タカ派)」に取り敢えず四分割して、その特徴をもう一度考えてみたい。あらかじめ断っておくが、この試みは、何かを主張したり、生真面目に提案したりするというものではなく、あくまで頭の体操に過ぎない。

例えば、大正末期から昭和初期にかけての日本を例にとるなら、「お花畑派」は皆無で、「ヤケクソ派」は「少数の共産革命運動家」と「2.26事件を起こす青年将校たちを生んだ陸軍皇道派」の左右両翼に分かれ、「現実的タカ派」が「対中強硬策に動いた陸軍統制派」、「現実的ハト派」が「幣原外相に代表される対中融和派」と言えるだろうか。「ヤケクソ派」はそのように呼ぶのが申し訳なく感じる程に純真であり、自らの信じるものに命を懸けた訳だが、現実を変えるだけの力にはなり得ない事は始めから分かっていた。

この時代の日本の悲劇は、「ひたすら自らの利益を追求する事しか考えなかった財閥」「党利党略に明け暮れた二大政党」「指導力を発揮出来なかった天皇の側近や元老」の三大勢力が、東北地方の貧農の悲惨な状況等に目を塞ぎ、日本全体を覆う社会不安を深刻に受け止めなかった事にあろう。そうなると、「ずっと先迄を読んだハト派の対中融和派」よりは「満蒙が日本の生命線と呼号したタカ派の対中強硬派」のほうが力を得るのは目に見えている。

(こう考えると、日本を軍国主義に導き、破滅的な戦争へと追い込んだ最大の元凶は、よく言われているような「独走した陸軍の指導者」や「大衆に迎合したジャーナリスト」以上に、実は「財閥」と「二大政党」の指導者だったのではないかとさえも思われる。)

さて、時代を現代に戻して考えると、現在の日本を覆っているのは、「漠然たる不安」以外の何者でもないような気が私にはする。切羽詰まった貧困がある訳でもなければ、民衆の不満が爆発寸前である訳でもない。尖閣列島の問題を除けば、外国の軍事的脅威が迫っている訳でもない。しかし、多くの人たちは、万事に閉塞感を持ち、将来に希望が見出しにくくなっているように思える。

そして、この「漠然たる不安」の構成要素を突き詰めていけば、要するに「産業の国際競争力が徐々に失われていっているのではないかという不安」「その結果として産業の空洞化が起こり、雇用不足が定着化するのではないかという不安」「高齢化社会がもたらす財政破綻への道をまっしぐらに進んでいるのではないかという不安」「日本が国際的に孤立し、周辺国の脅威に対抗出来なくなりつつあるのではないかという不安」等々が複合したものであるような気がする。

(従って、こういった不安を解消する為の政策こそが、今の日本の政治家が真っ先に取り組まねばならない課題だとも言える。そうしないと、民衆の閉塞感は、「何でもいいからモヤモヤを晴らしたい」という気持ちに変わり、「対外的孤立主義」「復古的国家主義」に向かい、「ヤケクソ派」が急速に勢力を増す可能性がある。)

さて、私自身は「現実的タカ派」に近いと思っているが、「現実的なハト派」が台頭し、基本的な二大政党体制が確立される事を強く望んでいる。「お花畑派」や「ヤケクソ派」は、日本人の生活水準を極端に低下させ、場合によれば日本を再び破滅に導く危険さえあると思っているので、何とか絶滅に追い込みたいと願っている。

それでは、「現実的なハト派」や「現実的なタカ派」を「お花畑派」や「ヤケクソ派」から分けるものは何だろうか? それは「全ての具体的質問に答える能力と意欲を持っている事」「自らの主張が実現した時に何が起こるかを科学的にシミュレートし、それを提示する能力」「国民の不安解消の鍵は結局は経済政策にある事をよく理解している事(経済に強い事)」の三点であると私は思っている。

この観点から見ると、先ず「お花畑派」のオピニオンリーダーは、絵本の作家とかミュージシャンとかいった人たちが結構多く、「子供たちに青空を」とか「戦争のない世界を」とか「人が人に優しい社会を」とか、誰も反対する事の出来ない「美しい言葉」を語るのはうまいが、経済には一様に弱い。と言うよりも、「経済を重視するのは卑しい事であり、そんなものよりももっと大切な事を先ず考えなければならない」と常に主張しているかのようだ。

彼等にとっては、何よりもスローガンが大切で、スローガンで人々の心を掴む事さえ出来れば、後は誰かがやってくれるだろうという無責任さが身上であるかのように思える。だから「為政者を批判する」事には熱心だが、多くの場合「具体的な代案」は何一つ持っていない。長年「何でも反対」のお気楽な野党をやっていた事もあり、これが身に付いてしまったのかもしれない。

「具体的な質問には答えず、常に論点をすり替えて抽象的なスローガンに戻る」というのも彼らの特徴だ。

「原発全廃」を呼号するが、「それでは日本の経済はこのようになり、国民の生活を直撃するが、それでもよいのか?」と問われても、それには答えず、「放射能で汚染された国を子供たちに残してもよいのか?」という「悪いに決まっている」という答えしかない「意味のない質問」に戻ってしまう。

安全保障問題についても然りで、「それでは尖閣諸島に中国人が上陸して五星紅旗を立てても構わないのか?」と問われると「相手を刺激せずに平和的に話し合えば良い」という「答えにならない答え」しか返ってこない。

(これは、奇しくも、従軍慰安婦問題で追いつめられた朝日新聞の現在の対応にもよく似ている。「吉田清治が言い出した『とんでもない嘘』が世界中に拡散されるお先棒を担ぎ、『かつての日本は極悪非道な国だったのだ』と世界に宣伝した責任をどうとるのか?」と問われると、「女性の人権を踏みにじる売春の運営は恥ずべき事だ」と答える。これでは問答にならない。)

次に「ヤケクソ派」だが、この人たちは、要するに「みんなが『自分の目先の事』ばかりを考え、『国のあり方』や『国として持つべき誇り』を一向に顧みない現状を放置すれば、日本はどんどん『駄目な国』になり、やがては今以上に(今も米国に支配されているが)外国に支配される国になってしまうだろう」という主張一点張りで、その後は思考停止に陥っている。

この人たちは、一般に、断定的(ドグマチック)、攻撃的、排他的で、「売国奴」という言葉を好み、「他国がどう考えるか」という視点に立って考える事などは金輪際ない。この人たちの心情は、大正末期、昭和初期に国の行く末を大きく誤らせた人たちのそれと大きく変わる事はないが、「当時の日本人と異なり、現在の日本人は既に歴史から多くの事実を学んだ筈であり、世界の情勢を知る為の情報も当時に比べれば格段に豊富」という事を勘案すると、相当にレベルの低い人たちだと断ぜざるを得ない。

話は飛ぶが、私は現在の世界を不安定にしている五つの要因を次のように見ている。

1) 「剣とコーラン」の昔に回帰した「時代錯誤のイスラムの過激派」

2) 9.11に悪乗りした「イスラエルの右派政権」

3) 旧CIS支配に固執する「プーチンの強権志向」

4) 矛盾に満ちた「中国の国内事情」と、それに起因する「習政権の対外拡張志向」

5) 「老獪さに欠けるオバマ政権の自信喪失」

そして、これを解決するべきは、それぞれの国や宗教組織の中の「良識派」「改革派」であるべきであり、対立する勢力ではないと考えている。

同じ事は、日本国内での「お花畑派」や「ヤケクソ派」への牽制策についても言えるのではないだろうか? 「お花畑派」を押さえるべきは「現実的ハト派」であるべきで、「ヤケクソ派」を押さえるべきは「現実的タカ派」であるべきだ。

現実的で思慮深いタカ派(残念なから、安倍首相ご自身は、好い人ではあるが、あまり思慮深いとは言い難い)は比較的見つけやすいが、ハト派の方には「お花畑派」の人たちが多く、現実的な政策を考えられる人が少ないのか気掛かりだ。