ピケティ『21世紀の資本論』とカウボーイ:文化的考察(その3) --- 宮本 陽子

アゴラ

(その2)より続く。

自由市場資本主義は社会流動性のエンジンであり、アメリカン・ドリームへの王道だとブッシュは言う。アメリカは犯罪の多い、下流には福祉の薄い社会だが、どんな環境に生まれ育っても、才能があってって勤勉に働けば誰でも成功できる機会均等な社会だというのが、アメリカン・ドリームの基本的概念である。そしてそれはアメリカの独立宣言の「すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている」という言葉によって、保証されているものと信じられている。


ここで注目すべきは独立宣言が創造主(キリスト教の神とは限定されていない)の存在を前提として人権を定義していることである。信仰が保証なのである。信仰は事実による証明を必要としない。独立宣言が書かれた時代、すべての人間は平等につくられているというのは、誰が見ても社会的現実では無かった。独立宣言は理想を述べているのであって、これが現実だと言っているわけではない。

信仰によっって保証される独立宣言が、アメリカン・ドリームの保証である。個人は社会環境に規制されずに独立して行動できるというアメリカン・ドリームの信条は、信仰によって人は過去の罪から解かれ救われるという観念が、社会と個人の関係へ投影されたものでもある。アメリカ人はビル・ゲイツは学歴無しで成功した、と言うのが好きである。これは、彼は有名進学校で高度な教育を受け、ハーヴァードに入ったが中退したことを都合よく無視している。そうしてでもビル・ゲイツを環境に関係なく成功したという定形に収めたいのである。

アメリカン・ドリームの楽観主義は個人に夢を与え、社会に活気を与える。これは大変結構なことだが、問題はアメリカ人は、アメリカン・ドリームが社会の現実であると、検証せずに信じていることである。アメリカは機会均等な能力主義(meritocracy)社会なのだから、社会福祉政策は怠け者を増長するだけだと自由市場主義者は言う。しかしアメリカは機会均等な社会だという実証はない。

アメリカが機会均等な社会だという論の最新の反証が、経済学者グレゴリー・クラークの『子もまた昇る The Son Also Rises』である。これは家族名を分析手段として、14世紀イギリス、19世紀以降の日本、現代スウェーデンなど、様々な国と時代の社会流動性を検証するという、ピケティよりまだ歴史・地理的規模を広げた大胆な研究である。

家族を単位として分析すると、個人単位の従来の方法で計算されるより、社会流動性はかなり低くなる。様々な社会改革努力にも関わらず、社会流動性は過去何世紀もほとんど変わっておらず、ある家族が上流から、また下流から中流へと動く(「平均へと回帰」という統計学法則が働く)には、どの社会でも概ね七世代かかると結論している。アメリカン・ドリームの約束にも関わらず、アメリカのアフリカ系、ヒスパニック系の下流の社会流動性は際立って低い。クラークは、研究を始めた時にはこんな結論になるとは夢にも思わなかったし、誰かこういう結論を出していたら一向に信じなかったろう、と言う。

アメリカン・ドリームという理想を現実に近づけるためには、経済弱者を長期的に支援するような政策が必要だと、クラークは言う。これに対し、自由市場資本主義者の論は環境決定論で倫理的に間違っているなどと言う。しかし倫理的でないのはクラークの研究ではなく、研究されている機会不均等な現実の方なのだ。

日本人には、個人は社会環境に規制されずに独立して行動できると本気で信じる人は少ない。「精神一統、何事かならざらん」という言葉はあるが、これは宿命論に陥るな、という戒めで、ままならぬ浮世を前提としている。アメリカには、ジョン・ヘンリー症候群という現象がみられる。ジョン・ヘンリーは民間伝承上の人物で、鉄道の杭打ちの名手だったとされる。杭打ち機械が導入された時に機械と競争し、負けそうになったが渾身の力を振り絞って勝ったものの、そのままこときれた(諸説あり、死なないのもある)とされている。そのように、いかなる逆境も頑張れば克服できると自己をひたすら鞭打って心身の健康を損ねるのが、ジョン・ヘンリー症候群である。自由意志による自助努力で環境を克服できると、そこまで信じられている(思い込まされている)のである。これもまた信仰の定形による。「不合理故に我信ず」という有名な言葉にあるように、信仰は、いかなる難問も、より固く信ずることによって克服してきたからである。

(その4)に続く。

宮本 陽子
歴史研究者(無所属)
オーストリア・ウィーン大学歴史学博士(D.Phil.)
シカゴ在住
ホームページ:Demystifying Confucianism