「なぜ経験を重ねると、人に優しくなれるのか」(17年12月7日)と題されたブログ記事で筆者は、「お互いさまの精神は、多くのことを経験した人ほど持っているものだと思う。(中略)年月とともに経験は増えていくという意味で、年齢を重ねるほど大人になるというのは間違いではない」と述べられています。
そしてそれに続けては、「だが、何歳になっても優しさが身に付かない人もいる。それは性格の問題ではなく、経験の問題、つまりどんな人生を歩んできたかということなのかもしれない」と言われているのですが、率直に申し上げて私には余りピンとこない言葉に感じられます。数多の貴重な経験を悉く重ねたとしても、人に優しくなれる人となれない人が当然ながら在りましょう。
歳と共に人に優しくなれるかもしれない人とは、「楽天知命…天を楽しみ命を知る、故に憂えず」(『易経』)の境地とまで行かずとも、ある種自分自身の置かれている立場や自分の能力といったものが大方分かってき、周りの人全てに感謝の念を抱きながら、多くの人のために生きて行こうという姿勢を強めて行く人だと思います。
他方、歳と共に名誉欲や権力欲の類が強まって行くような人も之またいるわけで、そういう策謀を様々に巡らせて良からぬことばかりを考える強欲な人、即ち「外見ニコニコ・腹の中真っ黒け」の人は優しくなれないでしょう。人に優しくなれるか否かは基本、私利私欲を如何にコントロール出来るようなっているか、そこに尽きるのだと思っています。
「爾曹(なんぢがともがら)但(ただ)常に人を責むるの心を以て己を責め、己を恕するの心もて人を恕せば、聖賢の地位に到らざるを患(うれ)へず」とは、『小学』にある范忠宣公(はんちゅうせんこう)の戒めの言葉です。ある種の性かもしれませんが人間というのは常に、自分を責めるに寛大過ぎて自分を褒めるに寛容過ぎる、といったところが有り勝ちです。本来、己に厳しく人にある意味優しくするのが、正しい生き方であります。「聖賢」と呼ばれるような人物は、人を利するところまで行くわけです。之はもう修養を積む以外なき道だと私は思います。
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