「財務次官セクハラ問題」で財務省がセクハラを認定しました。その一方で、テレビ朝日も非難を浴びています。テレ朝の失敗の本質を考察してみます。
今回の問題の本質はテレ朝にとって報道ウンヌンの話ではなく、それ以前の企業コンプライアンスにあったのだと思います。記者から上司にセクハラ被害の相談があった段階で適切な対応がとれなかった訳ですから。これは「報道する」「報道しない」以前の問題です。
テレ朝の最大の失敗は、この基本構造の説明が不十分で、なおかつ「報道倫理」というややこしい論点を自ら招き入れて自爆してしまったことではないでしょうか(報道倫理に関しては後述します)
本来は「記者に報道倫理上のミスがあったとしても、それは社のコンプライアンス不適切に起因する」と明確に結論付けるべきでした。これは論理上からも、テレ朝の危機管理上からも、そうするべきでした。
社のコンプライアンス上の不適切を認めつつ、記者の報道倫理上の問題を切り分けるから基本構造が曖昧になり、「報道機関として不適切」というイメージが一人歩きしてしまったのだと思います。そもそも「記者のせい」にしても所属社の責任が問われるのは自明です。
もしテレ朝が今後の報道で失地回復を考えているのならば、それは難しい気がします。今回の問題の出発点は報道の問題ではなく、企業コンプライアンスの問題なのですから。
さて、「ややこしい報道倫理」について。この点に関するテレ朝の失敗は、当初の深夜会見で「記者の無断録音は理解できる」と明言しなかったことです。朝日新聞の質問に答えて報道局長がそれに近いニュアンスを言っているのですが、何回聞いても説明不足の印象を受けます。これも「報道機関として不適切」イメージが一人歩きしてしまった一因です。
結局、後日おこなわれた社長定例会見上で「記者の無断録音は理解できる」とされ、「他社への情報提供の公益性」や「なにが報道機関として不適切だったのか」が再整理されるのですが、この初動ミスも致命的でした。
筆者は基本的には「記者の無断録音は理解できる」を是とします。録音データの基本性格が「取材データ」ではなく「セクハラのエビデンスデータ」ならば、通常、それは無断録音されるものですから。
ただこれは議論が分かれるでしょう。テレ朝としてはここにフォーカスして、逆に問題提起する手もあったと思います。展開の仕方によっては「報道倫理と人権のどちらが優先されるべきか」という、ちょっとおいしいテーマにもなりえたかもしれません。残念です。
ひとつ付記すると、職業倫理や規範を人権よりも上位概念として神聖視するのは、「とても御立派」だとは思うのですが、それは、ある種、ブラック企業の構造に酷似していると筆者は感じてしまうのですが。
余計なお世話かもしれませんが、テレ朝は再度、論点整理をした方がよいのではないでしょうか。たとえば、テレ朝の社内処分や再発防止の新体制に関する会見を設定し、その場で論点を再整理するのです。当然その内容が、社内処分や新体制のベースの考え方となる訳ですから、発信力はあると考えます。そして基本構造はコンプライアンス上の不適切にあるのですから、説明者は報道の責任者ではなく、企業の責任者であるべきです。
いずれにしろ、もしテレ朝が旧態依然の「昭和のメディア」と訣別する気があるのならば、まずはじめに求められるのは、その前提となる「昭和の企業体」からの脱皮ではないでしょうか。
最後に。官僚トップのセクハラは諸外国から見れば物笑いの種でしょうが、筆者としては「セクハラされた側の企業」がここまで批判される日本という国が、海外からどのように見られるのかも、ちょっと興味のあるところです。
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榎本 洋(えのもと ひろし)
フリーター。書籍・ムックの編集や広告関連の制作など。