まあ今では割と有名な話ではあるが、有名人とかスポーツ選手の著作というのは9割は本職のライターが書いているのは公然の秘密だ。勝〇さんなんて「2時間喋れば本が一冊出来上がる」と言われるほど大変生産性の高い方として有名である。
けれども彼らライターの名前はクレジットされることはなく、あくまで喋った本人の名義で出版されることになる。
最初に手に取った時、筆者はてっきり本書もそういうスタイルだとばかり考えていた。ところがしょっぱなからこれである。
序 「告白」の始まり
目の前にいたのは、私たちの知っている清原和博ではなかった。変わり果てた、英雄の“抜け殻”だった。その衝撃はインタビューが進むにつれて、イメージとの落差を浮き彫りにし、さらに深く我々を打ちのめした。
(中略)
かつての英雄を別人に堕としたのは覚せい剤だ。アンフェタミン系の精神刺激薬。白い粉末や結晶という形のある、目に見える、現実に存在する物質だ。
だが、それに手を伸ばした心の病巣には実体がない。清原氏の胸のうち深くに潜んでいるものが何か、いつ芽生え、いつから蠢き出したのか、本人すらわかっていない。
それを探す。沈黙の車内で、3人がほとんど同じことを考えていた。それが、1年にわたる「告白」の始まりだった。
2018年 春 鈴木忠平
もうこの時点で文面から異様な緊張感が漂う。本文も変わっていて、清原が語った言葉がほぼそのままの状態でつづられる。そしてその合間に取材したライターの思いが挟み込まれる。
なぜライターは編集を抑えてそのままインタビューを載せたのか。疑問を感じつつ読み進めていくうち、次第にその意図が見えてくる。
ライターが取材対象の話を編集して一冊の本にするということは、取材内容を自分なりに消化吸収して一つのストーリーを紡ぎ出すということだ。たとえば「ワシは本当はとても繊細で小心で、せやからずっと番長言われるんがプレッシャーやったんや」とかなんとか書けばロジックは分かりやすいし万人受けもするだろう。
でも、それでは清原の抱え込む闇の深さはとてもとても描けない。いや、たぶん誰にもこの闇の底は見通せない。だったら出来ることはただ一つ。ありのままの言葉を記録し、闇の深さを読者に感じさせることだ。
筆者は読み進めるうちに、なんだか部屋の中に清原がうなだれたように座り、本文を語っているような印象すら浮かぶようになった。
告白は初めて野球に出会った小学生時代から始まり、西武編、巨人編、オリックス編と続いて現在に至るのだが、全編通じて強く感じるのは、とにかく清原はメンタルが弱いという点だ。
いや、弱いといっても甲子園決勝や日本シリーズといった大舞台で本塁打打つんだから常人よりははるかに強い。問題は清原自身に、自分でメンタルを調整したり、自分の中から自力でモチベーションを生み出すといったセルフコントロール力が完全に欠落している点にある。
ライバルとの真剣勝負で奮い立ったり球場で応援されると火が付くが、そうでないとヒットすら打てなくなるほど湿っぽくなり、それを個人ではどうしようもないのだ。
85年ドラフトにしても、巨人が清原を一位指名するはずだったという話は、おそらく氏の思い込みではないか。仮に匂わせるような発言があったとしても、ずっと引きずるような話なのか。本人もその点に違和感は抱いているようだが、でも自分で自分のメンタルをコントロールできない。
巨人に対しても、そして元チームメイトの桑田に対しても、いつまでも解けないわだかまりを抱え込んでしまったままだ。
そういう、普通の人なら日々払い捨てている「人間関係の屑」のようなものが、十代のころからずっと清原の中に降り積もり続けた結果、気が付いたら底知れない闇が出来上がっていたように思える。
キャリアのピークを越えてから急に肉体改造に取り組んだのも、メンタルと違い筋トレは必ず成果を伴うためだ。興奮剤の使用も同じ理由で、そしてそれが薬物依存への道を開くことになったのだろう。
引退後、普通の人間なら第二のキャリアを見つけるか、趣味に没頭することでメンタルを前向きにする。でも氏にはそれもできず、薬物依存が加速してしまった。
意外だったのは、清原自身は自身の弱点をきちんと分析できていた点だ。
松井は年々、進化していましたし、技術もすごいんですけど、一番の僕との違いはメンタルの強さだったと思います。いつも同じように球場に来て、同じように球場を去っていく。そういう姿に「こいつすごいな」と思っていました。
例えば大チャンスに打てなくてチームが負けても、淡々としているんです。松井とはロッカーが近かったのでわかったんですけど、あいつはホームランを打った日もまるっきり打てなかった日も同じように淡々と着替えて、同じようにスパイクを磨いて帰っていくんです。感情を見せないんです。
(中略)
松井は悔しくなかったんじゃなくて、感情をうまくコントロールできる人間なんだなと思います。僕とは根本的に違うんです。
イチローや松井というのはお客さんが一人もいなくても、同じパフォーマンスを出せるタイプの選手だと思うんです。僕は逆にファンの人たちとの一体感がないと力を発揮できなかった。だから応援のボイコットは本当につらかったし、それを取り戻すために、何だってやったんです。
ifを言っても仕方ないが、FAの時に巨人ではなく阪神を選んでいれば、闇はそこまで深くはならなかったのではないか。「巨人の外様の4番」と違い阪神の4番だったら別にそんな打たなくても大丈夫そうだし。
清原ファン必読の一冊だが、人間というものを考える上でもよいきっかけになる一冊だろう。
以下、なぜか印象に残った氏の発言。なんとなくだが、清原は西武時代について語っている時が一番気楽に話せているような(あくまでも文面からの推測だが)印象を受けた。なぜ憎んですらいた巨人に移籍したのか。これも闇がそうさせてしまったのだろうか。
たまの息抜きは久信さんの車に乗せてもらって、青梅街道沿いのリンガーハットに行くことでした。そこで長崎ちゃんぽんを食べながら、ああだ、こうだと話している時間が一番楽しかったような……。
生まれ変わったらまた野球をやるのか……。そうですね……。やるでしょうね。やりたいですね。
(中略)
今の野球界では野球したくないですけど、僕がプロに入ったばかりの頃のような、あの頃の人たちがいるような、昔の野球界でなら、もう一回野球がしたいという気持ちなんですよ。
編集部より:この記事は城繁幸氏のブログ「Joe’s Labo」2018年9月14日の記事より転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はJoe’s Laboをご覧ください。