「万世一系」とは現在の皇室に至るまで代々の天皇が神武天皇の男系男子の子孫であることを意味する。それに対して、崇神天皇以前の天皇の実在性を疑ったり、応神天皇や継体天皇のときに新王朝に交代しているのでないかという否定論がある。
前者については、初代である神武天皇がいかなる人物であったか曖昧だということにすぎず、万世一系を否定する議論とは必ずしも言えない。
従って、問題は応神天皇と継体天皇である。この時代の日本ではまだ公文書のかたちで文字にする習慣が確立していなかったので、彼らについて同時代の文書というものが存在しないのであるから、なにごとも100%確かだとはいえないのは確かである。
しかし、『日本書紀』という正史において採用され、国内的にも国際的にも通用していたことを嘘だというなら、それが、明らかに不自然だということを立証すべきであろう。
『日本書紀』の完成は継体天皇の時代から200年ほどのちのことだが、歴史編纂作業は推古天皇のころから始まっている。そして、推古天皇は継体天皇の孫であって、その時代には継体天皇の即位経緯についての記憶はそれほど風化していたとは思えないのである。
そして、これから説明するように、まったく不自然なところはないし、逆に新王朝だとしたら明らかに不自然であることが多々あるにもにもかかわらず、安直に新王朝だと言い張る人がいるのは誠に不思議である。
まして、それがいわゆる保守系の人にまで一部及んでいるのは、皇室そのものや、万世一系を前提としている明治憲法の権威を貶めることに全力を挙げてきた戦後史観を幼少時から刷り込まれてきた残滓としか思えないのである。
継体天皇の即位経緯
さて、『日本書紀』が継体天皇の即位経緯として書いているのは以下の通りである。
「仁賢天皇の子の武烈天皇は、暴虐で若死にしたので、近親では皇位継承者がなかった。そこで、朝廷の実力者だった大伴金村らは、遠縁の王子たちから候補を探すことにして、最初は仲哀天皇の子孫、つまり、応神天皇の異母兄の末裔で丹波に住む倭彦命に声をかけた」
「ところが、王子は差し向けられた軍勢を討伐に来たと誤解して逃亡してしまった。そこで、応神天皇から五世の孫で、近江の高島郡で生まれて、母親の実家である越前で育った男大迹王を選び迎えたというのである。これが継体天皇である」
「しかし、継体天皇は大和国でなく、河内の樟葉(枚方市)で即位したのち、山城の長岡京市や京田辺市に宮を構え、大和に落ち着いたのは10年後のことである」
これについて、①遠縁の人物で58歳という高齢の人物しかいなかったのは不自然である、②19年も大和に入れなかったのはよほど厳しい対立や戦いがあったのだろう、③武烈天皇の非道ぶりが『日本書紀』に書かれているのはわざとらしい、というようなことをいう人がいる。
しかし、いずれもナンセンス極まりない。
仁徳天皇の子孫がほかにいないのは顕宗天皇即位の経緯から明らか
①については、継体天皇は応神天皇の五世の孫と言われる。つまり、曾孫の孫である。それならもっと近い候補がいたはずといいたいらしい。しかし、非常に強力な天皇だった雄略天皇のあとを継いだ清寧天皇には子がなく、近い親族にも適当な王子がいなかったので困っていたところ、播磨で牛飼いをしながら隠れていたのちの顕宗天皇、仁賢天皇の二人が名乗り出たので、たいへん喜んであとを継がせたとある。
清寧天皇にとっては又従兄弟という遠縁だった(共通の曾祖父が仁徳天皇)。雄略天皇がライバルを大量に殺してしまった結果である。だとすれば、顕宗天皇の子である武烈天皇に跡継ぎがいなかったときに、仁徳天皇の子孫からは誰も見いだせなかったというのが、むしろ自然なのである。
しかも、継体天皇は、遠縁と言ってもかなりメジャーな皇族だった。なにしろ、父の従姉妹が允恭天皇(440年頃即位)の皇后であり、雄略天皇の母なのである。
それでは、なぜ、最初に声がかからず、応神天皇の子孫でなくその異母兄が第一候補だったかと言えば、年齢が適当だったかもしれないし、地理的に近いところに住んでいたからだったかもしれない。
ただ、ここで分かるのは、応神天皇が新王朝だったらこんな発想は出てこないはずで、これをもって応神天皇新王朝説も考えにくいと思う。
大和に宮を置かなくても足を踏み入れなかったとは限らない
②については、大伴金村の招きで皇位継承を引き受けたが、自らが大和国内に基盤を持たない継体天皇にとっては、大和にいきなり入ることは危険だと考えられたからだと思う。大和には、有力豪族たちの本拠地があり、それは、一種の治外法権的な存在だったと考えられる。
歴史家は「テロヘの恐怖」を軽くみる傾向があるが、本人たちにとっては最重要の判断材料である。だから、周辺に有力豪族の本拠地がない河内の樟葉宮、山城の筒城宮、弟国宮を経て即位から二十年にして大和に本拠を移した。ただし、それは宮を置かなかったというだけで、その間にいちども大和に足を踏み入れなかったとは限らない。
織田信長が京都に住むことを嫌って長く岐阜に留まり、のちに安土を本拠にしたからといって上洛しなかったのと同じだ。とくに、皇后として仁賢天皇の手白香皇女を迎えて欽明天皇が生まれているのであるから、大和にあった別の勢力と雌雄を決したと言ったことではない。
継体天皇を新王朝の創始者らしい英雄と『日本書紀』は書いてない
越前の豪族であった継体天皇が、本来の出身地である近江や、妃の出身氏族である尾張氏などを糾合して、大和の王建を倒して政権を取ったなどと地方連合政権的なイメージまで語る想像力たくましい人もいる。
しかし、そうなら、継体天皇は『日本書紀』で華々しい英雄として描かれているはずであろう。ところが、『日本書紀』の描く継体天皇は、およそ冴えない天皇で、大伴金村のロボットのようであるから、王朝創始者のはずがないと私は思う。
また、継体天皇即位以降も、朝廷の実力者は、大伴氏、蘇我氏、物部氏のような伝統的な大和の有力豪族であって、越前や近江から連れてきた家臣たちが政権中枢を占めたのでもない。
こうして考えていくと、新王朝らしいという材料はどこにもないし、逆に新王朝だとすれば腑に落ちない話がいくらでもある。
③の武烈天皇の悪行については、そういうことがなかったともいえないし、やや漢籍などを参考に誇張したかもしれないが、だから嘘だとなぜなるのか理解不能だ。
以上のような点を踏まえてもなお、どうして新王朝の可能性が強いということになるのか理解しがたい。
『日本国紀』も、 「王朝が入れ替わったとするなら、むしろ納得がいく」「(皇位簒奪は)十中八九そうであろうと思う」としているが、どういう思考経路の結果か不思議である。
主な出来事
- 樟葉宮で即位(継休元年)
- 筒城に遷都(継体5)
- 任那四県を百済に割譲(継体6)
- 越前時代の子であるのちの安閑天皇が仁賢天皇の春日山田皇女と結婚する(継体7)
- 弟国に遷都(継体12)
- 百済の武寧王が死去し聖明王へ(継体13)
- 筑紫で磐井の乱が起きる(継体22)
- 伽羅の多沙津(たさつ)を百済に割譲したので伽羅は新羅と結ぶ。近江毛野臣を任那に派遣するが不調(継体23)
八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授