テキヤの親分と松本前復興相―世相が政治家の質を左右する?

北村 隆司

規模は勿論、原発事故と言う厄介な問題を抱えた東日本大震災は、直面する課題の質も規模も関東大震災とは比較にならない。しかし、それ以上に違うのが復興の進め方と政治家の質である。

東京の下町育ちで、関東大震災では九死に一生を得た経験を持つ私の亡き父が、1977年に出した「私の見てきた浅草蔵前―東京の下町」と言う本の一節、「テキヤの親分と東京復興計画」から、その違いを示すエピソードを紹介してみたい。


「当時の東京の下町は、東京十五区のうちの、浅草、下谷、神田、日本橋、京橋の五区ぐらいで.芝と本郷が下町と山の手の中間地区で、本所、向島、深川は、下町の連中は『川向こう』といって、『下町』とはいわなかったものである。『川向こう本所、深川も江戸のうち』とかいう古川柳があったが、その気持ちが当時の下町人には残っていたのであろう。

その下町にもそれぞれ特色があって、日本橋、京橋は商業地で、いろいろな問屋が集まり、浅草、下谷、神田は、どちらかといえば庶民の住宅地であった。こうした区分は、明治大正時代はほとんど変らなかった。町々のたたずまいも,町の持っている雰囲気も、それぞれ独特のものがあって、今の東京の下町のように、どこへ行っても変りばえのしない、千篇一律の町並ではなかった。

その町並みが、そして家々のたたずまいが変った最初の時点は間東大震災であり、その次が戦災である。 東京は焼け野原になってはじめて、変った形で復興してきたのである。ことに大きな変革は関東大震災であった。今にして思えば、当時の市長後藤新平は、実に偉い政治家であった。彼は焼け野原に恒久建築(これを本建築といった)を禁じ、短い年限を決めて仮設建築(バラック建てといった)のみを許し、区画整理事業の終了を待って建築法を制定し、恒久建築を許したのである。

『区画整理?』。当時の東京人には、初めて聞く言葉でどんな事かさっぱりわからなかったのも無理はない。区で、町で、幾度か説明会が行われ、ようやく納得のいく頃には。区画整理の原案がもう出来ていた。そのころの役人は,なかなか能率がよかったものだと、いまにして感心せざるを得ない。

その原案には、どこの町でも異論のないところはなかった。大なり小なり、持ち地所が小さくなったり、替え地を与えられたりするのだから、市民にとっては大問題である。が、不思議な事は、今のような反骨者、エゴな市民がいなかった事である。一にも二にも、東京の復興で凝り固まっていた市民は、お互いに譲り合ったり合われたりで、今から思えば、想像も出来ないくらいに早く纏まり、あの大事業が遂行されたのである。

もっともへそ曲がりも皆無ではなかった。

鳥越にいたテキヤの大親分。説明に来た区役所の役人の言い草が気に入らないと、大喧嘩になり、その後、替え地承諾書に判を押さないのはもとより、町会の役員、町会長などが訪ねて来ても、『他の話はともかく、区画整理の話しだけはかんべんしてください』と、てんで受付けようとはしなかった。

着々と進む町内の区画整理に、彼の家だけが動かないので、広まった道路が、彼の家の所でくびれたようになってしまい、町や区の大問題になったのである。『いやァ,アッシはね、替え地が不満でも何でもないんです。役人の言い草が、いやその言い草の出どころが気にいらねえんです。町内の皆さんには申し訳無いが、アッシはテコでも動かないと決心しちまったんでさァ。アッシの目の黒いうちは-それもあと五年か十年でしょうが、その間は、皆さん目をつぶって勘弁して下さいな』 そう言い張って、話し合いどころではないのである。

しびれを切らした役所側の係員は、これは強制執行しなければ片がつかないと言う結論になり、最後の話し合いに,町会長や町会の役員と一緒に同家を訪れたのである。親分相変わらず頑として動かない。話しの途中で強制執行と言う言葉が出ると、『そりゃおもしれぇ。やってみて下せぇ。アッシにも配下の連中が何百人といます。おめぇさん方役人を相手に、血の雨を降らすなんてこったァ、アッシの一世一代の大芝居だ。見物のお客さん方は、喜びますぜ』と大タンカを切ってびくともしない。

町会の役人に対しては、応対尋常どころか非常に謙虚なのだが、何が気に入らなかったのか、区から来た部長か課長かのおえら方に対しては、ケンもほろろの受け答え。ところが、何かの話しの序でに、そのおえら方が『この復興計画には、天皇陛下も非常にご心配なさっていらっして、復興計画が完了したら御巡幸くださる事になってるんです』といった途端『えっ? 天皇陛下様がご心配?それ、ほんとですか』と大親分。

『ほんとですとも。新聞にしじゅう出ていますよ』とおえら方が答えると、やにわに大親分、居ずまいを正して、『そうですかい。天皇陛下様がご心配になさってるとは知らなかった。こりゃあ、申し訳ない。あっしゃァ、さっそく引っ越しますよ。あした、あさって、二日間で引っ越しますよ。』といかにも申し訳なさそうに、みんなの前で親分は深々と頭を下げたのであった。

そして約束通り二日間で引越し完了。その後、替え地の本建築現場へ見回りに来た親分が、町会の役員連中に出会うと、これが『矢でも鉄砲でも持ってこい』と、大タンカを切った親分かと疑いたくなるような、低姿勢かつ如才ない挨拶をするのだった。

とまれ、こうした場合は例外中の例外で、人の気持ちも良かったし、また、復興一本に市民の心を集中させた当時の政治家もえらかった。思えば「良き時代」であったのであろう。その復興事業の結果、道幅は広くなり、曲がりくねった道がまっすぐになり、路地という路地が、横町になってしまうような大変革であった。

震災後に、ああした大変革が行われなかったら、また『一人でも反対者がいたら、橋一つかけない』と見得を切るような人が市長だったら、今の東京はどうなっていたであろう。」

松本前復興相とテキヤの大親分の対決を見たかった気もするし、同じ岩手県出身の大物政治家でも後藤新平と小沢一郎の違いの大きさにも驚かされる。

自らの内閣を「奇兵隊内閣」と名付けてスタートした菅内閣に対しても、彼が尊敬する「奇兵の兵士」に倣い、我々国民も反乱を起す時期かも知れない。それにしても、事の大小を判断できない昨今の指導者を生んだのは,今の世相に責任があるのでは?などと、ため息混じりに考えさせられる。