2021年夏に開催予定されている東京オリンピック・パラリンピック(以下、「東京五輪」)の開会式1年前となった7月23日、新型コロナ感染判明者数が、全国で981人、開催都市東京都で366人といずれも過去最大になるなど、感染拡大が止まらない状況の下、国立競技場では「開催1年前記念イベント」が開かれ、競泳女子の池江璃花子選手が、世界へのメッセージの発信役に起用された。
白血病からの復帰をめざす競泳女子・池江璃花子選手が一人でフィールドの中央に立ち、自らの白血病の体験と、東京五輪をめざす選手達の立場を重ね合わせるかのように表現した上、「1年後の今日、この場所で、希望の炎が輝いていてほしいと思います」と、来年夏の東京五輪の開催を願うメッセージを発した。
この池江選手の記念イベントでの起用の経緯について、毎日【東京開催の危機「池江一択」 組織委、世論の打開狙う オリンピック1年前メッセージ】は、
大会関係者によると人選は「池江一択」だったという。池江が白血病を公表した昨年2月、池江の呼び掛けに応じて日本骨髄バンクへのドナー登録が急増した。社会的な影響力の高さに加え、組織委内には闘病生活を乗り越えプールに戻ってきた池江の起用で、新型コロナウイルスで様変わりした環境に苦悩する世界中の仲間へ勇気を届ける思いも込めた。
と述べている。
しかし、白血病と闘い、克服しようとしている池江選手の姿勢には心を打たれ、共感しつつも、それを、「来年夏東京五輪開催」に結び付けようとしたことに違和感を覚えた人が、多かったようだ。
それは、ツイッターでの反応からもわかる。「池江璃花子」で検索すると、多くのツイートで、「違和感」「政治利用」などの言葉が出てくる。
白血病との闘病を乗り越え、2024年の五輪に向けて練習を再開したばかりの彼女が、「1年後東京五輪開催」に向けてのイベントに駆り出されること、それを拒絶できないことに、私は、痛々しさを覚えた。それは、多くの人に共通する感覚だったようだ。
多くの人がそのように感じるのは、来年夏の東京五輪が開催できる可能性は極めて低いこと、それにもかかわらず、日本政府や東京五輪組織委員会が、開催予定を維持しており、それは、もっぱら安倍政権側の政治的な事情によるものだと感じているからだ。
【「コンプライアンス問題」としての“東京五輪協賛金追加拠出”】でも述べたように、日本では、足元で過去最高の新規感染者が判明している状況であり、しかも、経済の回復と両立させる方針で、4月のような緊急事態宣言を出そうとせず、「国民に感染対策を呼び掛ける」ということにとどまっているので、沈静化の見通しすら立たない。世界の感染状況は一層深刻だ。米国やブラジルなど中南米諸国では、感染者、死亡者が増加を続け、欧州各国の一部では、経済活動再開後に、感染者数が再び増加に転じている。
国内、海外の状況から、国民の多くは、感染者数が再び全国的に大幅に増加している状況下で、来年夏の東京五輪開催に向けて労力やコストをかけることに否定的であることは、7月中旬に行われた各種世論調査で、「開催すべき」が少数にとどまっていることにも表れている。
「開催すべき」との少数の意見の多くが、東京五輪の晴れの舞台をめざしてきた選手達の心情を慮るものであろうが、実際には、その選手達にとっても、客観的に見て開催される可能性が低いと思える来年夏の東京五輪に向けての練習に肉体と精神を集中させていくことは極めて困難で酷なことである。
むしろ、開催の可能性が低いのであれば、少しでも開催中止を決定するのが、選手達のためでもある(有森裕子氏は、「来年の3月まで引っ張ったら選手(の心身)が持たない」と述べている:サンケイスポーツ)。
東京五輪が2022年ではなく2021年への延期となった最大の原因が、安倍首相自らの自民党総裁の任期内に開催することが目的であることは、組織委員会の森喜朗会長も認めている。しかも、自民党寄りの産経新聞ですら【首相、五輪来年開催に不退転の決意 解散戦略に影響も】で述べているように、安倍首相が五輪開催にこだわるのが、政権の花道(レガシー)にするためであり、東京五輪開催の有無は、内閣支持率が低迷する中、衆院解散・総選挙で政権を維持しようとする安倍政権の解散戦略にも影響を与えるという背景がある。
まさに、東京五輪開催の問題は政権維持そのものにも関わる極めて政治的な問題であり、そのことは、国民の多くが感じていることである。
このような「来年夏五輪開催に不退転の決意」で臨む安倍首相の意向を受け、組織委員会や政府関係者が、来年夏開催が困難との認識、五輪開催に否定的な世論に抗って、それを変えていこうとしたのが「東京五輪1年前イベント」だ。
【前記毎日記事】で
五輪開催を巡る世論は厳しさを増している。(中略)無観客や規模縮小でも開催に否定的な回答が肯定的な回答を上回っている。
支持を呼び掛ける大規模イベントが感染予防の観点から開催できない中、組織委は再び支持を高めることに腐心。池江の求心力に託し、苦境の打開を図った形だ。
と述べているように、新型コロナ感染再拡大で、五輪開催に否定的な世論を、積極的な方向に変えるために、病み上がりの池江選手をイベントに駆り出したのである。
このイベントでの池江選手のメッセージに、多くの人が、共感しつつも「違和感」を覚えたのは、当然の反応と言えよう。
池江選手は、10代の競泳選手として国際的な活躍を重ねた後に、不幸にして白血病に侵され、その闘病から見事に復活し、2024年の五輪出場をめざしている。まさに我々国民全体にとっての「希望の灯」である。大切に、大切に、その復活を支援していきたいと誰しも思っている。それを、新型コロナ対策で国民の期待を大きく裏切り瀕死の状況にある安倍政権の延命のために政治利用するは論外だ。
問題なのは、客観的には来年夏の東京五輪が開催できる可能性が低く、多くの国民が、コロナ感染拡大に不安感を持ち、開催に否定的であり、来年夏開催の是非を抜本的に再検討しようとするのが当然であるのに、政府・与党の側に、五輪開催の是非を見直す動きが全く出てこないことである。
それどころか、組織委員会側は、来年夏東京五輪開催を何が何でも維持するために、開催に否定的な世論を、積極方向に誘導するため、「一年前イベント」に池江選手を登場させるという「禁じ手」とも言える方法まで使った。それに対しても、政府与党・組織委員会の内部から誰も異を唱えなかったいということである。
結局のところ、内閣支持率が下落しているとは言え、7年にわたる長期政権での「権力集中」に慣れ切ってしまった政府・与党内からは、いくら常識的にあり得ないこと、不当なことでも、「おかしい」と声を上げる動きが全く出てこないのである。
それは、「桜を見る会」問題に典型的に表れた公的行事の私物化の構図と共通している。「桜を見る会」運営の実務を行う内閣府や官邸の職員には、公金によって開催される会が、安倍後援会側の意向で「地元有権者歓待行事」と化していることに違和感を覚えても、異を唱えることなどできなかった。
後援会の招待者が増え、地元の参加者に十分な飲食の提供など歓待をしようとする後援会側から要求に抵抗できなかった結果、開催経費が予算を超えて膨張していったが、内閣府等の職員達は、各界の功労・功績者の慰労という本来の目的とはかけ離れた運営の実態にも、全く、見てみぬふりをしていた。
こういう「桜を見る会」の問題に対して、国会での厳しい追及が行われていたが、新型コロナ感染拡大が深刻化する中で、与党側から、「感染対策が喫緊の問題なのに、なぜ『桜を見る会』などというくだらないことを取り上げるのか」というような声が大きくなるにつれ、国会での追及も自然消滅してしまった。
しかし、その後、安倍政権が行ってきた感染対策のデタラメ、経済対策の混乱・迷走などを見れば、このような国にとって危機的事態に直面しているからこそ、政治権力の集中の下で、政府・与党全体が、政権の意向を忖度する余り「思考停止」してしまう構図を放置することがいかに危険か、国民が信頼できない政権が維持されることが、いかに国民の利益を害するのか、多くの国民が「痛感」してきたはずだ。
新型コロナ感染拡大が始まるまで続いていた「桜を見る会」問題の追及が中途半端な形で終わり、安倍政権への権力集中の下での、与党や官僚機構の無機能が放置されてしまったことが、今、この国が危機的な状況に陥っている大きな原因と言わざるを得ない。
今や、日本の社会にとって一つの「厄災」になりつつある「来年夏東京五輪開催」を一日も早く断念し、危機的な状況にある日本社会が、コロナ感染と経済危機に立ち向かえる体制を構築していくことが不可欠である。