「江戸時代」が壊れるとき:脱原発から反TPPまで

與那覇 潤

福島第一原発事故の先行きが不透明なまま、争論好みの人々のテーマはなし崩し的に「原子力ムラ」から「TPP」(環太平洋連携協定)へと移ったように見えます。あくまでも個人的な見聞の範囲ですが、宮台真司氏や内田樹氏、中沢新一氏など、「脱原発」に熱心な論者ほど「反TPP」の立場をとる傾きがあるようです。おそらくそこには、「アメリカ主導の原子力行政もTPPも、ともに『人間を疎外してきた近代化』や『行き過ぎたグローバル化』の象徴であり、明治以来それらの道をひた走ってきたわれわれも、昨今の混乱を前に立ち止まって、むしろ『人々が互いに思いやる地域の温もり』や『自然と共生してきた日本の伝統的価値観』を取り戻すべきである」といった、(ある意味で震災前から)ポピュラーな歴史観があるのでしょう。しかし、それは本当に正しいのでしょうか。近刊の拙著に則して、日本の伝統社会=「江戸時代」の継承と断絶という観点から、考えてみます。


たとえば、そもそもなぜ津波の危険性がある福島県沿岸部に、何基もの原発が集中して建てられてきたのでしょうか。これは1974年、田中角栄内閣下で成立した電源三法交付金制度によるもので、公共事業を通じて地方の過疎地に「自立」――という名の補助金依存――可能な財源を与える国家戦略に基づいていました。「国土の均衡ある発展」の標語で知られるとおり、高度成長下で進んだ農村から都市への人口流出を止め、経済発展の成果を地方でも享受できるようにすることが田中自民党のビジョンでしたが、実は、これは江戸時代の経済史を反復するものなのです。江戸や大坂といった大都市が急成長したのは17世紀の間のみで、「鎖国」という究極の規制政策のためにメトロポリスの発展が制約された結果、18世紀(1701~1800)の100年間はむしろ大都市部は人口増加も頭打ちとなって停滞し、逆に諸藩に属する中小の地方都市が繁栄したとされています。

つまり、保守政党への集票を通じて日本の原発行政を動かしてきたのは、西洋近代的な科学信仰や経済的合理主義という以上に、「あらゆる地域を平等(似たり寄ったり)に」、「生まれた故郷で(大都市に出てゆかなくても)生涯を送れるように」という、きわめて伝統的=江戸時代的な感性だったのです。だとすれば、本来「脱原発」を真剣に考えるなら、まずはこのような「地域」ごとにすべてを完結させようとする発想(東洋史上の用語でいう封建制)を、根本から断たねばならない。しかるに、声高に「脱原発」を口にする人々(の一部)が、同時に「福島の事故は(放射能が怖いから)福島内部で処理しろ」とばかりに、自らの居住地域への瓦礫受け入れを拒む姿は、日本社会がいまだ、自らの「内なる江戸時代」を克服していないことを示しています(実際、近世の飢饉時にも食糧の移出入が禁止され、領国ごとの自給自足を要請されたことが、地域を越えた協力を困難にしたとされます)。

あるいは「平成の開国」という菅直人前首相のキャッチフレーズもあり、しばしば幕末のメタファーで語られるTPP論争はどうでしょうか。TPP反対=「鎖国」派は「加盟しても輸出の振興にならない」ことを理由に挙げ、逆にTPP推進=「開国」派は「輸出立国モデル自体を放棄すべきだ」と主張する構図ができていますが、ここでも実は、江戸時代の鎖国こそが、日本史上最強の「輸入代替政策」だったことを思い出す必要があります。中世末まではアジアからの輸入品だった木綿を、鎖国という貿易規制の下で否応なく国産品に代替したことが、開国以降、明治期の繊維製品に傾斜した「輸出立国」の前提になったのです。ちなみに、反TPP言説のひとつに「関税自主権の放棄は幕末の不平等条約と同じだ」というものがありますが、関税自主権を奪われていた=明治政府が恣意的な輸入関税による産業保護や、輸出関税による価格吊り上げを行えなかったことが、結果的に、国際市場での日本製品の競争力を高めたというのが最新の学説です。

このように、西洋近代ではなく日本近世=江戸時代という文脈から考えるかぎり、本来あるべき組み合わせは「江戸時代の継承=原発(交付金)容認+TPP拒否」ないし「江戸時代との断絶=原発停止+TPP加盟」の二極になるはずです。しかしその構図が現にとられていないということ自体が、「地域ごとの現状維持=国際競争からの隔離」によって国民の生活保障を代替してきた、江戸時代的な戦後日本のしくみが今、まさに壊れつつあることを示唆しています。

そもそも、果たして江戸時代とは、この国で「続けるに値する」伝統であるのか否か。渡辺京二氏は2005年に再刊(初版は1998年)されてベストセラーとなった書物において、士農工商といった「職」ごと、あるいは「村」や「家」ごとに一定の生業を与えられているがゆえに、それが人々に最低水準の保障と温和な秩序をもたらしていたことを示す挿話を、幕末期の欧米人の日本見聞記から豊富に引用しつつ、しかし、以下のような酷薄なエピソードを紹介しています。

日本人の知り合いは…施しをしてはならぬとスミスをとめるのだった。日本には貧窮などは存在しない。一族とか家族が貧しいものの面倒は見る…だから街頭で乞食をしているものは怠け者かうそつきなのだ、というのがその日本人のいい分だった。 『逝きし世の面影』pp.148-149

既存の「職」を規制政策(たとえば鎖国)によって保護する代わりに、無職者は劣等者として排除する。「村」や「家」の現状を理想の秩序として讃える反面、属する共同体を持たないものは見捨てる。江戸時代の平和(パクス・トクガワーナ)とはそのような二面性を持って存立していたのであり、これは企業の終身雇用慣行と、保守党政権の世帯(家族)中心の再分配政策によって、「雇用レジームが福祉レジームを代替してきた」戦後日本の福祉国家像の原形となっています。しかし、フリーターや独身者をはじめとして、一見磐石に見えたその体制から零れ落ちる人々は常に存在したばかりか、「無縁社会」と呼ばれた近年にはますますその勢いを増し、ついに大震災と原発事故(および風評被害)によって、大量の「職も家も失った人々」を出してしまった。

私たちが生きてきた歴史は、欧米型の近代化という以前に江戸時代の延長であり、いまその成否と功罪が問われているのも、やはり西洋近代という以上にわれわれ自身の伝統である――そこにこそ、私たちの真に立ち止まるべき場所があるように思います。

與那覇潤(愛知県立大学准教授/日本近現代史)

※ 拙著『中国化する日本:日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋)は11月19日発売、2012年1月5日までは出版社のサイトにて、第1章の末尾までが無料で試し読み/ダウンロードできます。