日本文化の故郷は中国南朝だ~江南という桃源郷

日本人のための日中韓興亡史」(さくら舎)は、日本で統一国家が成立したころ、江南の地で栄えた六朝文化への憧憬から始めている。

八幡さん著作

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コロナの直前に、南京・鎮江・揚州を旅行して、日本人と日本文化の故郷はここではないかという感慨をもった。東日本の人は少し違う感覚をもつだろうが、西日本人としては関東より、よほど、郷愁を感じさせる風景が拡がっている。

孫文を記念した中山陵(南京)筆者撮影

「千里鶯啼きて綠紅に映ず 水村山郭酒旗の風 南朝480寺 多少の樓臺烟雨の中」という夢幻的な情景を描いた「江南春望絶句」という漢詩の名作がある。晩唐の詩人杜牧が、隋による南北統一(581年)まで、南京(建康)を首都として栄えた南朝の栄華をしのんで詠んだものだ。

中国における南朝は、狭い意味では、東晋が滅びたのちに興亡した宋、斉、梁、陳の4つの王朝とその時代のことを指す。しかし、それに先行し南京(当時は建業と言った)に都をおいた三国時代の呉と、東晋もあわせて六朝(りくちょう)とも呼ぶし、少なくとも東晋と四つの王朝は一体と見て南朝時代(317~589年)と言うべきだ。

国家は脆弱で、貴族たちは勝手気ままで贅沢な生活を送ったが、「書聖」といわれる王羲之、『女史箴図』を代表作とする画家の顧愷之、「桃源郷」を描いた『桃花源記』で知られる詩人の陶淵明などが活躍した中国文化の黄金期であり、仏教がもっとも栄えた時代でもある。

水田による稲作はここで始まり、日本に伝えられた。朝鮮半島経由と思っている人が多いが、せいぜい半島沿岸部を経由した程度だ。稲作が江南地方から来たとすれば、弥生人たちも江南の人たちであろう。

実際、古代中国人は日本人を「呉の太白」の子孫だと認識していた。呉の太白は周王室の始祖である文王の伯父である。父が三男の季歴に家を継がせたがったので、次男である弟とともに江南に移り春秋戦国時代に栄えた呉を建国したとされる人だ。

痩西湖(揚州)筆者撮影

少なくとも、古代中国人が印象として日本人と江南の人々が似ていると思ったわけで、同時代人のストレートな印象は考古学的遺物にまさる説得力がある。

また、四世紀の大和朝廷による国土統一から遣隋使・遣唐使の派遣までのあいだに主として百済経由で輸入した仏教も含めて、大陸文明とは、南京(建康)を首都とする中国南朝のものだった。

その名残りは、漢字の読み方にもある。「六朝時代」と書いて「りくちょう」と唐から伝わった漢音で読むのが習慣だが、「ろく」というほうが南朝から日本に伝わった呉音であって、日本語には呉音の発音が多く残る。

数字は呉音が、イチ、ニイ、サン、シイ、ゴウ、ロク、シチ、ハチ、ク、ジュウで、漢音ではイツ、ジ、サン、シ、ゴ、リク、シツ、ハツ、キュウ、シュウだ。

「日本」の「日」を「にち」と読むのでも呉音であって、「にちふぉん」といった発音をしたようだ。仏教用語も呉音が多く、阿弥陀は阿弥陀は、呉音でアミダ、漢音でアビダ、唐音でオミトだ。

「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空空即是色般若心経」を唐音で読むと、「カンツザイプサ。ヘンシンポゼポロミトス。チャウケンウインキャイクン。トイチェクエ。セリツ。スェプイクン。クンプイスェ。スェチスクンクンチススェ」らしい。

和服は呉服と呼ばれるように北方民族に支配される前の漢民族の服装にルーツを持つ。