コロナが炙り出したもの
周知の通り、コロナ禍によって大学の教育の運営方法は一変した。オンライン授業の準備・対応に追われた昨年を経て、今年はほとんどの大学がオンライン授業に対応している。ただし、コロナ慣れと思しき状況が見え始めると、今度は対面授業のニーズが高まり、対面かオンラインかハイブリッドかの3択を迫られている。
だが、大学が問われているのは教育方法だけではない。コロナに揺さぶられ浮き彫りになったのは大学の教育方針という根幹である。
ポリシーなき大学
時代の要請に応ずることは必須対応事項ではある。しかし、対応せねば不満の声が増大するからとオンライン授業を始め、対面授業が受験生PRにも結実すると聞けば今度は対面に戻す、というのではポリシーなどあってないようなものだ。
実際に、感染リスクの観点からオンライン授業廃止に抗議する声もあれば、対面授業廃止は義務不履行であると学生が大学を訴えた例もあり、対照的な反応が混在している。
教育はただのサービス業に非ず
付和雷同しないために、各大学はどのように人を育て(カリキュラム・ポリシー)、どんな人物を輩出したいのか(ディプロマ・ポリシー)、という教育方針を定めることが義務付けられている。環境変化や時代の要請を踏まえつつ、これらのポリシーを全うすることは手間が掛かる。教育はサービス業であるとも言われるが、人を育てる営みは元来手間の掛かるサービスなのである。
では、どのような手間ならば削減可能で、どのような手間ならば削減不可か。これは、サービス業である以上、サービスの受け手との合意形成が欠かせない。一方的なサービスカットは手抜きと受け取られる。合意形成の手間を惜しむと、前述のような訴訟にも発展する。
私の勤務する大学が国内大学で初めて「シラバス」を導入したのは、時間割と簡単な科目説明だけでなく、全講義内容および評価基準を配布することが「学生との約束」であるとの考えからであった。学生と何を約束するかは大学毎に異なる。しかし、少なくとも、学納金と学位を交換するだけの単なる受け渡しを教育とは呼ばない。
サービス業ならばサービス精神を
教育はサービス業であるが、同時に、人材輩出という点では社会にとってインフラ業でもある。したがって、教育というサービスはビジネスライクに済ませられない。個人との約束と社会との約束を果たすべく、大学人は自ら定めたポリシーを再確認し、合意形成に汗を掻かねばならない。
手間の掛かる教育には、手抜きしないサービス精神が必要不可欠である。