「え?まさか。信じられない・・・」
7月上旬、筆者は思わず驚きの声を上げた。
オランダの著名記者ペーター・R・デ・フリース氏が首都アムステルダムの路上で銃撃されたという。生前に同氏やその言論活動を知っていたわけではないが、数々の犯罪事件の報道で知られ、ギャングから脅迫を受けていた人物がこのような形で、しかもアムステルダムの市中で攻撃を受けたことが衝撃だった。アムステルダムには仕事や観光で何度も訪れたことがある。
同氏は数日後に病院で死亡した。
たった一人の殺害でも、ジャーナリストの死は象徴的な意味を持つ。欧州理事会のシャルル・ミシェル議長は「(殺害は)ジャーナリズムに対する犯罪であり、民主主義と法の支配に対する攻撃だ」とツイートした。
7月末時点でポーランド人男性とオランダ人男性が被疑者として逮捕された。
世界各地でジャーナリストが殺害対象となっている。
「国際新聞編集者協会」(IPI)の調べによると、昨年は55人が紛争に巻き込まれるか、その言論活動が原因で亡くなっている。今年は現在までに22人である(8月末、駐留米軍が撤収後のアフガニスタンの状況は含まれていない)。
マルタ記者の殺害事件の波紋
最近、新たな注目を集めているのが、地中海の島国マルタの調査報道記者ダフネ・カルアナガリチア氏の殺害事件だ。同氏は、2017年10月、運転していた乗用車に仕掛けられていた爆弾が爆発し、死亡した。前月、同氏は自分のブログに命が脅かされていると書いていた。
生前はジョゼフ・ムスカット首相(当時)の妻や側近による汚職疑惑を追及し、国際的な資産隠しを暴露した「パナマ文書」報道(2016年)にかかわるとともに、国外の富裕層に向けたマルタの市民権や旅券の高額販売の不正疑惑を調べていた。一連の報道は首相側近の逮捕、複数の閣僚の事情聴取につながり、ムスカット氏は辞任を余儀なくされた。2020年1月、与党・労働党のロベルト・アベラ新党首が首相に就任した。
今年2月、犯行を認めたビンセント・ムスカット被告に殺人罪で禁錮15年の判決が言い渡された。しかし、殺害目的を含む事件の全容は未だ解明していない。
遺族の強い求めによって設置が実現した公的調査会は事件の目撃者、捜査関係者、政治家、ジャーナリストらを対象に調査を行い、今年7月29日、437ページに上る報告書を発表している。
報告書は国家が記者の殺害の責任を負うべきと結論付け、首相府の上層部に「免責の文化」が存在したと指摘した。特に批判の的となったのが、「免責の文化を醸成させた」ムスカット前首相だ。免責の文化は政治トップから「警察や規制組織に波及し、法の支配の崩壊を招いた」。
調査会は政府が殺害に関与した証拠を見つけたわけではなかったが、ムスカット政権はカルアナガリチア氏の命が危険にさらされていることを認識せず、危険を避けるための手段も取らなかったと指摘した。
殺害に至るまでの過程で何も策を講じなかったムスカット政権は、殺害に「集団的責任を持つ」。政権側が恐れたのは、記者が書く記事が政権批判を招き、ビジネス界との親密な関係にひびが入ることだった。調査会は、殺害が同氏の調査報道に関係していたと明確に述べた。
政府とカルアナガリチア氏の対立が頂点に達したのは16年のパナマ文書報道だ。
実業家ヨルゲン・フェネック容疑者(カルアナガリチア氏の殺害共謀罪で訴追)が所有者と言われているドバイの企業「17Black」が、ムスカット前首相の側近や前閣僚らが関連する複数の企業に極秘の賄賂を払う計画を持っていると暴露した。
調査会は報告書の中で、「大企業の計画や政府の安定性を脅かすような高度の機密情報をジャーナリストが所持していたことは明らか」とし、政権との対立が極限にまで達したのは、カルアナガリチア氏の記事が「正確」で、警察でさえも利用するほどの「オープンソースの情報という役割を果たしたからだ」。カルアナガリチア氏の調査報道を「無効にするための組織的な働きかけがあった」。
調査会は、政治と大手ビジネスとの癒着を防ぐための施策が講じられるよう求めた。ムスカット前首相は調査会の結論を「受け入れる」としながらも、辞任によって「この事件で自分は究極の政治的な犠牲を払った」と表明した。
言論の自由が阻まれる、ベラルーシ
8月3日、東欧ベラルーシの人権活動家ビタリー・シショフ氏の遺体が隣国ウクライナの首都キエフの公園で見つかったことが分かった。
シショフ氏はアレクサンドル・ルカシェンコ大統領が強権政治を行うベラルーシからウクライナに亡命する人を助ける団体で活動していたが、前日から姿を消していた。公園では首をつられた状態で死亡しており、自殺だったのか何者かに殺害された後で自殺に見せかけるようにされたのかは判明していない。
独裁政治が続くベラルーシでは反体制勢力が弾圧を受けており、5月には政権に批判的なジャーナリスト、ロマン・プロタセヴィッチ氏を乗せた旅客機がギリシャからリトアニアに向かっていたところ、ベラルーシに強制着陸させられたばかりだ。同氏はベラルーシ当局に拘束された。
リトアニアに退避中の野党指導者スベトラーナ・チハノフスカヤ氏は8月3日、ボリス・ジョンソン英首相とベラルーシ情勢を協議するため、英国を訪問中だった。
英放送局チャンネル4の番組に出演したチハノフスカヤ氏は、シショフ氏の死に対するベラルーシ政府の関与の可能性を否定しなかった。
「自分自身や家族の身の安全が一層心配になったのではないか」と聞かれ、チハノフスカヤ氏は「祖国の将来が最も心配だ」と答えた。「個人を抹殺されても、体制反対派の運動は続くと思う」。
8月1日、東京五輪に出場したベラルーシの女子陸上選手クリスティナ・ティマノフスカヤ氏が代表チームの運営について不満を公言した後で強制送還されそうになり、帰国を拒否する事件が起きた。ティマノフスカヤ選手は本人の希望通り、ポーランドに亡命したが、ベラルーシの言論状況の不自由さが日本人にも身近に感じられるようになったのではないか。
組織犯罪の圧力、大企業と政府との癒着や汚職、批判者を押さえつける独裁政治。欧州のジャーナリストや活動家は様々な危険と隣り合わせだ。国によっては、政権の意にそぐわない意見を表明する人は「敵」とされてしまう。
言論の自由がどこでも保障されているわけではなく、批判すれば様々な形で口を封じられる場合もある。これが欧州の現実である。
(新聞通信調査会が発行する「メディア展望」9月号掲載の筆者記事に補足しました。)
編集部より:この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2021年10月30日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。