サントリーホールで行われた名古屋フィルハーモニー交響楽団の東京特別公演(1月24日)を鑑賞。再び市松模様に戻ったサントリーの客席が、収まらないコロナ禍とクラシック演奏会の逆境を思わせた。
しかし、演奏は奇跡のように素晴らしい。精神を明るく照らす音楽の力に励まされた。指揮は音楽監督の小泉和裕さん。コンサート・マスターは日比浩一さん。
モーツァルトの『交響曲第31番ニ長調 〈パリ〉』から、落ち着いていて深みがあり、華麗だが秘められたものを感じさせるオーケストラの響きに聴き入った。小泉さんの指揮は東京都交響楽団との共演で聴くことが多かったが、名フィルとのパートナーシップも成熟している。
地方まで遠征してオーケストラを聴く機会が少ないので、名フィルのプレイヤーは知らない方ばかり。モーツァルトの典雅な響きにはいぶし銀のような渋さがあり、それは「落ち着き」と咄嗟に表現してしまったが、在京オケのどのサウンドにもない独特の味わいだった。「裏色」のような色彩を感じさせるのだ。フルート奏者の熱心な表情、バス奏者の優雅な動きを見つめつつ、この色に譬えると明るい白のような曲は、モーツァルトが母親を失った時期に書かれたことを思い出した。
前半2曲目のラフマニノフ『パガニーニの主題による狂詩曲』では、ピアニストの小林海都さんが登壇。来日出来なくなったピアニストの代役だったが、めざましい名演を聴かせた。
一階席の後方で鑑賞したため、もっと年上の演奏家だと思っていたが、1995年生まれの26歳で、2021年のリーズ国際ピアノコンクールで最高位を受賞している。マリア・ジョアン・ピリスのワークショップが留学の契機となったことが経歴に記されていたが、ピリスの薫陶を受けた人々は何か音楽にとって「一番重要なもの」を授けられるに違いない。ルーカスとアルトゥールのユッセン兄弟もそうだった。
小林さんは言うまでもなく輝かしい技術の持主なのだが、技術が独り歩きせず、音楽にとってもっと重要で深刻なものに到達している。ラフマニノフが生きた時代の空気感も感じさせた。洗練された歌心があり、オーケストラとの掛け合いが愛情深い。
共演の醍醐味とはつまるところ、どれだけ呼吸感が合っているかということなのだろう。一枚ずつ扉を開けていくような変奏の、一曲一曲に素晴らしいメッセージがあった。小林さんには誠実さだけでなく、エンターテイナー的な余裕もあり、こんな凄い若手がまだいたのか、と嬉しい驚きだった。
大寒に入り、休憩時にホールの外に出ることもためらわれるほどの夜だったが、なぜかそんな空気の冷たさまで嬉しかった。ラフマニノフの後はチャイコフスキーで、この真冬の日に、ラフマニノフとチャイコフスキーを一度に聴けるとは、なんと贅沢なことかと思った。
『交響曲第1番《冬の日の幻想》』は、ゲルギエフとマリインスキー管のオール・チャイコフスキー・プロで聴いたことがあり、他の演奏会でも折に触れて聴いたことがあったはずだが、決定的な名演はこの夜の演奏だった。
名フィルの音のはじまりは、サンクトペテルブルクの冬空そのもので、咄嗟に窓ガラスに張ったパリパリの氷と、雪の結晶が目に浮かんだ。実際ロシアには春と夏にしか行ったことがないので、それは私の幼少期の記憶である。高層の建物などない田舎で、冬はただただ白い空が天蓋のように地面を覆い、家の中にいると軒下のつららがすごい音を立てて落ちる音が聴こえた。つまり、名フィルのサウンドは自分の記憶の中の最も深い部分に触れてきた。チャイコフスキーは「生命」そのものだ。暖かいホールの中で、幼い頃の冬の記憶がよみがえった。過ぎ去った時間と「再びともに生きる」感覚があった。
2楽章の「陰気な土地、霧の土地 アダージョ・カンタービレ・マ・ノン・トロッポ」は、ほぼ弦楽器と管楽器のみで優美な楽想が展開していく章で、降りしきる粉雪の中で意識がホワイトアウトしていくような感覚に包まれた。水墨画の「六遠」の概念を思い出させる、神妙な立体感がある。チャイコフスキーは若い時代に、こんなに清純な気持ちで音楽と向き合っていたのだ。これが5番になると賭博師のような世界になるが、そのように変形してしまう前のチャイコフスキーの「心の原型」がこの1番にはあった。
後半のチャイコフスキーを聴いているうちに、小泉さんの指揮が何か、普通ではない凄味を発しているように思えてきた。今まで都響で聴いてきて、一度も失望したことがなかったが、改めてこのマエストロは何者なのだろうと考えずにはいられなかった。
オーケストラを素晴らしくしている要素は色々あるが、やはり指揮者が素晴らしくあることが大切なのだ。国が豊かで健全であるためには、賢明な王がいなければならない。小泉さんの美意識の突き詰め方は、恐ろしく求道的で、容赦ないと直観的に感じた。正しい言葉かどうか分からないが、個人的な生き方を貫いている。要らないノイズは聞かず、余計なものには同調せず、世俗と自分を切り離して芸術を深めてきた方だと思った。それがオーケストラから伝わってきて、衝撃的だった。
フィナーレ楽章では、ロシア民謡を思わせる人懐こい旋律が溢れ出した。オーケストラは昂揚し、青い炎が燃え上がってくようだった。クラシック音楽を本当に理解しようと思うことは、自分にとって依然として孤独な作業だが、名フィルの「真冬プログラム」には大きな勇気をもらった。
何を美しいと思うのか、何を本物だと思うのか。背狭い場所で、同調圧力に負けるな。それを決めるのは自分という個人しかいない。小泉さんと名フィルは、確かに人生を変えるコンサートを聴かせてくれた。