「宏池会」の伝統を曲解している岸田政権

岸田政権は世論におもねるあまり、大衆に人気がないこと、強い抵抗があることを避けることに徹している。なにごとも説明不足のきらいがあった安倍・菅政権に比べて、ソフトによく説明することはよいことだし、世論の動向をみて上手に微修正することは、政権安定のうえからはいいことだ。

しかし、世界中がゼロコロナ政策の軛から解放されて、ウィズ・コロナで上手に政策のイノベーションをやっているなかで、お籠もりが好きな高齢者や、コロナ患者から逃げたい医療界の我が儘に引っ張られて、まるで逆走している。

宏池会HPより

外交でも、北京五輪への対応が典型的だが、世論ばかり気にしているから、何かピリッとしない。

そういう路線について、良くも悪くも「宏池会」の伝統だとかいう人がいるが、私はそれはおかしいと思う。なにしろ、宏池会の創始者である、池田勇人や大平正芳の内閣は、そういう大衆迎合とは対極にある勇気をふるっていたからだ。

たしかに、「増税なき財政再建」とありえない目標で無駄な時間を使った鈴木善幸内閣や、バブル処理に大鉈を振るえず中韓の顔色をみすぎた宮沢内閣には似ているかもしれないが、少なくとも宏池会を誕生させ発展させた二人の偉大な先輩の姿とはだいぶ違う。

今回は、宏池会の創立と名前の由来を紹介するとともに、昨日、発売になった、「日本の総理大臣大全 伊藤博文から岸田文雄まで101代で学ぶ近現代史」(プレジデント社)」から、この二人の総理の部分を短縮して、その業績を紹介したい。

1957年に池田勇人は、旧自由党の吉田茂派(吉田学校)を同門の佐藤栄作(周山会)と分ける形で前尾繁三郎・大平正芳・黒金泰美・鈴木善幸・宮澤喜一・小坂善太郎など官僚系を中心とした人材を中心とした派閥を形成した。

「宏池会」の名は、後漢の学者・馬融の「高光の榭(うてな)に休息し、以て宏池に臨む」という一文から、陽明学者安岡正篤が命名したものである。

池田勇人内閣

安保騒動のときに、通産相だった池田勇人は、広島県竹原市の酒造家に生まれ、旧制五高から京都帝国大学法学部に進んだが、大酒飲みで遊び人だった。予算でなく税制のプロと云う傍流だったが、戦後の公職追放でエリートたちが消えた間隙を縫って事務次官となり、代議士初当選で吉田内閣の大蔵大臣に抜擢された。

吉田内閣の通産相として「貧乏人は麦を食らえ」、「中小企業が倒産したり、結果、自殺する人が出ても仕方がない」と舌禍事件があったので心配されたが、陽明学者安岡正篤の助言を容れ「寛容の忍耐の政治」を看板にし、「私はウソは申しません」「経済のことは池田にお任せ下さい」を口癖に国民の信頼を獲得した。

首相になった池田は、安保改訂をめぐって国論が二つに割れた傷を修復するために、政治論争は棚上げにした。経済で欧米先進国と対等の関係を築き、生活水準も肩を並べることに全力を挙げた。

このころ、宇宙開発競争での成功や植民地の独立でソ連など社会主義陣営の成功が頂点に達し、生活水準を上げなければ自由主義の正当性が疑われなかった。

先進国として世界の自由貿易のプレイヤーとしての道を日本が選び、貿易や資本の自由化を実現したことは、アメリカにとってもメリットがあったので、日本が安全保障分野で貢献が少なくても許してくれた。

池田は「所得倍増計画」という分かりやすい目標を掲げ、貿易の自由化を時期尚早との声を抑えて進め、1964年にはIMF(国際通貨基金)八条国への移行とOECD(経済協力開発機構)加盟を達成した。「先進国クラブ」に入るのは見栄を満足させるだけと批判されたが、結果的には正解だった。

安保闘争の傷が癒えないまま行われた1960年11月の総選挙は、得票は少し減らしたが、候補者調整が功を奏し、議席は微増で議席率64パーセントは史上最高だった。

選挙後に成立した第2次池田内閣では、「国民所得倍増計画」が決定された。農業基本法が制定され、構造改善など合理化が推奨され、工業などへの労働力移動の基礎が出来た。また、それまでは、四大工業地帯に限定されていた大工場の進出を地方に振り向けようと新産業都市が構想された。ただし、最初は鶴崎(大分)や水島(岡山)を北九州のようにしようという発想だったが、全国から誘致合戦が起きて、新産業都市と類似の工業整備特別区域を20も指定することになり、良くも悪くも広く薄い政策に堕した。

外交では、アメリカの駐日大使に日本研究者のライシャワーが就任し日本の各界へのアピールに大変功績があった。また、朴正熙の権力掌握と友に日韓交渉が本格化した。朴正熙は李承晩のように反日を政治の道具にしようとは考えなかったので、賠償はしないが、経済協力で実質的に援助しようという日本側の考え方を理解した。とくに、大平外相の活躍がめざましかったが、韓国国内では原則論にこだわる勢力が常に日韓の和解を邪魔するという図式が交渉妥結を邪魔した。

第2次内閣では小幅の改造だったが、一年後の1961年の改造では、河野一郎農相、佐藤栄作通産相、川島正次郎五輪相、藤山愛一郎経企庁長官、三木武夫科技庁長官などが勢揃いした。

さらに、1962年の池田の無風での総裁再選後には、大平外相、田中角栄蔵相が重要ポストにつき、このコンビがそれから20年近く実力を遺憾なく発揮した。また、河野一郎が建設相となったが、壮大な構想力と実行力で、大胆な国土開発が行われた。

とくに、高速道路や新幹線を建設し、浜名湖周辺へ首都移転、京都国際会館、筑波研究学園都市の建設、明石淡路ルートでの本四架橋、利根川の水を東京にというような事業が構想され、そのうちいくつかは実を結んだ。

のちの田中角栄らの発想が個別地域の発展に傾斜したのに対して、国土デザイン始めにありきのダイナミックなものだった。

池田内閣の発足直後の総選挙から三年がたち、所得倍増政策も軌道に乗り、翌年に東京五輪を控える中で、政権基盤の確立を狙って解散が行われた。

しかし、予想に反して投票率は伸び悩み、結果は、自民、社会ともに原状維持に近いものだった。自民党政権は外交的にも経済的にも一定の評価を獲得し、政権交代の可能性は遠のき、憲法改正阻止と現状への不満のはけ口であることが野党の役割として定着してしまった結果だった。民社は23議席を獲得し小政党として安定した。選挙期間中に、国鉄横須賀線鶴見事故と三井三池炭鉱炭じん爆発が起きたことは与党の足を引っ張った。そして、投票日の翌々日にはケネディ米国大統領暗殺事件が起きた。

内閣は7月に改造されており全員が留任した。翌年7月の自民党総裁選で、池田が佐藤栄作の猛迫を退けて三選されたのを機に改造され、総裁選で池田を支援した河野一郎が五輪担当相となり、外相に椎名悦三郎、官房長官に鈴木善幸、防衛庁長官に小泉純也、党では大野伴睦副総裁と前尾繁三郎幹事長となった。

1964年の4月には(国際収支を理由とした為替取引の制限をしない)IMF8条国移行OECD加盟が実現したが、先進国として世界の自由貿易のプレイヤーとしての道を日本が選んことは、アメリカにとっても歓迎するべきことであった。一方、池田は中国と政経分離でLT貿易を開始して、とりあえず、アメリカを振り切っての政治的和解は先送りにしつつ、日中両国にとっての実質的な利益の増進を図った。

そして、1964年10月には東京五輪が開催され、日本が自由主義的な先進国の一員としての地位を確立したことを世界に印象づけた。

しかし、その一方で、憲法改正は遠のき、革新勢力とも激しい対立はしないように融和が図られた。アジアではこのころ、ベトナム戦争が始まっていた。もし、このときの総理が池田でなかったら、日本はこの戦争に巻き込まれていたかもといえなくもない。

しかし、この五輪期間中に中国が核実験を行った。このことは、ソ連だけでなく、中国にも日本が独力で国を防衛できなくなったことを意味した。中国が核武装すれば日本もする、あるいは米国の核の持ち込みを認めるといったことをいってでも是が非でもこれを止めるべきだったし、中国の核武装の持つ意味をもう少し厳しく受け止めるべきだったのではないか。

大平内閣

福田首相は。支持率が高いことを背景に、二年で大平幹事長と交代するという「密約」を反故にして再選を狙った。しかし、大平を説得できるとたかをくっていたことと、衆議院解散に努力を傾注しているうちに、初の党員による予備選挙への準備が疎かだった。

一方、大平には、党員名簿を入手して絨毯爆撃を行った田中派の全面的な支援があった。しかも、慢心して「二位の候補者は党員の意見を尊重して辞退すべき」と主張したことが仇になって「天の声には変な声もある」という迷言を残して政権を去った。

このころは国際情勢の動きが激しく、第2次オイル・ショック、米中国交樹立、イランのイスラム革命、米ソ第2次戦略兵器制限条約の締結といった出来事があった。そうしたなかで、日本で最初の先進国首脳会議が開かれ、このような国際会議の運営経験のない日本にとってはひとつの試練だった。

期間中にはフランスのジスカールデスタン大統領が米英仏首脳と秘密の事前会合を開き石油各国別割り当て案をまとめて日本はそれを挽回するのに大変苦労したといったこともあった。現在に比べて外務省の能力もだいぶ低かった。このサミットのことはともかく、大平への各国首脳の評価が非常に高かった。

外交では福田内閣の「全方位外交」に対して、「環太平洋協力」を打ち出した。つまり、福田のそれがアジアに重点があったのに対して、アメリカやオーストラリアもアジアとの関係構築のなかに取り込んでいこうというものだった。それはのちにAPECや価値観外交に発展していく。

また、ソ連のアフガニスタン侵攻を理由に、カーター大統領がモスクワ五輪をボイコットしたときには、これに思い切りよく追随した。難しい判断だったが、最終的にはそうせざるを得ない問題なので、早期の決断が光った。中国に対しては、鄧小平の改革開放に積極的な助言を与え、また、これを後押しした。

キッシンジャーは、日本人があいまいに約束し、また、それも守らないことを批判しているが、大平については、相手の面子を潰すことなく日本の立場をきちんと説明したし、約束したら、必ず、それ以上のことを実行してくれたと異例の高い評価をしている。

大平の故郷は香川県三豊市で、高松高等商業(香川大学経済学部)から、東京商科大学(一橋大学)を経て大蔵省入り。吉田内閣で池田勇人大蔵大臣の秘書官を宮沢喜一とともにつとめた。池田内閣で名官房長官といわれ、ついで外相となった。

「総合安全保障戦略」、「家庭基盤の充実」、「田園都市国家構想」、「環太平洋協力」、「地方文化振興のための国分寺構想」など大平の構想は、日本の持続的な繁栄を図る上で的確な方向を示していた。とくに、「ドイツのように珠玉のような小都市が連なる国」をめざす「田園都市国家構想」は、大平の地元の金子正則知事がイギリスの学者に感化されて構想したものだった。

こうした大平の経済社会構想は、「成長活用形」という言葉で集約できた。そこそこ成長を維持する力はなおあるなかで、目先の経済成長だけでなく、成果を文化なども含めた長期的な投資に振り向けていこうというもので、財源問題の解決もその一環だった。

日本の社会福祉はヨーロッパ諸国に比べて遅れていたが、田中政権のころから急速に充実した。だが、大きな政府にはそれにふさわしい税制が必要だったのだが、高度成長していたので、赤字出してもあとの世代が負担してくれるという前提で制度だけが充実した。

だが、このころ、各地で革新自治体が財政破綻するなかで、野放図な財政運営に反省が生まれ、大平は一気に一般消費税とグリーンカード制の導入という正論をもって総選挙に臨んだ。だが、自民党は過半数割れし、「四〇日党争」が始まった。

反主流派は首班指名選挙で福田に投票し、それを野党が支持し、決選投票で大平が勝ったものの僅差だった。その後も抗争は続き、五月に社会党が出した内閣不信任案の採決に反主流派が欠席して動議が可決されたので、大平は衆議院を解散して参議院との同日選挙に踏み切った。だが、心身共に疲れ果てていた大平は、選挙戦中に倒れて、帰らぬ人となった。

なお、「グリーンカード」(少額貯蓄等利用者カード)も一般消費税とワンセットだったことを忘れている人が多い。所得税・法人税に偏った税制から消費や資産への課税をめざし、郵便貯金利子非課税の不正利用を防ぐために名寄せしようというものだった。しかし、国民総背番号制導入に道を拓くとして野党も否定的で、鈴木内閣が実施を延期し、中曽根内閣が制度を廃止した。

消費税にしても、国民総背番号制にしても、これを嫌うのは裏社会である。そして、それに保守も革新もそれぞれつながり、西欧並みの透明性をどうしてもかくとくできないままだ。